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シャバアーサナ(屍のポーズ)の時に、自分と世界の境目が消えて宇宙と一体になっているような感覚を感じたことはありますか?
この「宇宙と一体になった感覚」をインド哲学の言葉で言うと「ブラフマンとの融合」と言います。
インドで発祥の古典ヨガは、ブラフマンとの融合を目指して行うものでした。では、ブラフマンとは何でしょうか?
今回は、ヨガを深めるために理解したい、インド思想の最も大切な部分についてご紹介します。基本部分が理解できれば、これからのヨガの練習、人生に活かせると思います。ギータなどの経典を読む時にも、ずっと分かりやすくなります。
まずは自分の根源であるアートマンとは何かを知りましょう
ヨガ哲学で「アートマン」という言葉を聞いたことがありますか?ブラフマンを理解するためにも、まずは「アートマン」について説明します。
インドの思想では、自分自身の本質は私たちの身体ではないと考えています。私たちの内側にあるアートマン(個の根源)が本当の自分だと考えられています。アートマンは、魂や霊性として考えると理解しやすいと思います。
私たちの身体(心を含む)は、本当の自分(アートマン)が宿るお寺のようなものです。
魂または霊性であるアートマンが私たちの内側に存在し、人間や動物として生を全うし、肉体の寿命が訪れると身体から離れて次の宿に移動します。生まれ変わりの「輪廻転生」の考え方がインド思想の根底に常にあります。
人が古い衣服を捨てて新しい服を着るように、主体は古い身体を捨てて新しい身体に行く (バガヴァッド・ギータ2章22節)
本当の自分であるアートマンは、ヨガの実践によって感じることが出来ます。深い瞑想によって訪れる、自我を超えた静けさの状態(サマディー)は、アートマンの状態そのものです。
アートマンとはどのようなもの?性質、特徴は?
偉大な不生のアートマンは、認識からなり、諸機能に存在し、心臓の内部にある空処に休らっております。それはいっさいの主宰者、一切の君主であります。(ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド4章第4節より)
私たちの本質であるアートマンは、全ての生命の心臓にとどまっていると考えられていますが、言葉で制限することが出来ないものです。
マンドゥキャ・ウパニシャッドでは下記のように説明されています。
- 無限の知識を持つもの
- 全ての始まりであり、終わりである
- 見られざるもの
- 実体のない、性質や個性のない、想像できず、定義されない
- 個自身の単独の本質
- 完全な寂静、平和、至福
アートマンは「意識」そのものであり、「存在する」以外の行為を生み出しません。ヨガでは、自身の内側へと意識を向けていくことで、アートマンに到達することを目指します。心の内側に存在する穏やかさを手に入れるのがヨガです。
宇宙の根源であるブラフマンとは?
個の根源であるアートマンに対して、宇宙全体の根源をブラフマンと呼びます。
宗教的な表現を使うと「宇宙の創造主」ですが、哲学的に分かりやすく言い換えると「全ての原因」と表現できます。
マンドゥキャ・ウパニシャッドで説明されるように、始まり(過去)、現在、終わり(未来)全てを含んでいます。
オーム。 この不滅の言葉は、目に見える世界全てを含んでいる。つまり、[どのようであったのか]、[どのようであるのか]、[どのようになるのか]、誠に、これら全てがオームである。
これら全ては、誠にブラフマンである。 個はブラフマンである。(マンドゥキャ・ウパニシャッド1節・2節)
オームとは:
さて、個の根源であるアートマンと、宇宙全体の根源であるブラフマンは別のものに思われがちですが、全ての生命に宿るアートマンとブラフマンは一体だと言われています。この世界の全てのものがブラフマンと一体だという考え方は「1元論」と呼ばれます。
ここからは、どうしてアートマンがブラフマンと一体なのかを説明します。
個々に個性のあるアートマンとブラフマンが一体な理由
どうしてアートマンとブラフマンが一体だと言えるのでしょうか。
私たちは姿かたち、それぞれ個性的です。人間だけ見てもみんな個性的ですし、動物や植物、姿かたちが全く違います。全ての生命の内側に存在するアートマンが、たった一つのブラフマンと同意というのは、少し分かりにくいかもしれません。
ブラフマンとは、全ての根源、原因です。インドの哲学者シャンカラは、土と壺の例えで説明しています。
- 壺、皿、釣瓶(つるべ)など全ては、土のかたまりから作り出されます
- 上記の全ては、土を根源として発生した物です
- 「壺」「皿」「釣瓶」という定義は、言葉によって認識された虚栄であり、真実は全て「土」である
土と壺の関係はインド哲学では頻繁に使われる例えですが、宇宙全体でも上の例えと同じように考えることが出来ます。私たちは作り出された「結果」を見て個を識別しますが、全ての根源は「ブラフマン」であることに変わりはありません。
アートマンを知ること=自分の心をコントロールすること
私たちは、アートマンを知ることで自分自身をコントロールできるようになります。それは、馬を操ることに似ていると言われます。
アートマンを馬に乗るものと、身体を実に馬車と知れ。他方、理性を御者と、思考(マナス)をまさに手綱と知れ。諸感覚器官を人は馬と呼び、対象をその走路と呼ぶ(カタ・ウパニシャッド3章3・4)
マナスとは:
私たちの本質であるアートマンは馬車に座っている人です。アートマンは身体(馬車)に座っていますが、自ら馬を操りません。外の世界と接する馬(感覚器官)は、思考という手綱によって操作されますが、御者である理性がいなくては正しい方向に進めません。
私たちは、理性によって思考(マナス)を操らなくてはなりません。思考よりも理性が優れ、さらにその上にアートマンが位置します。
アートマンを知り、馬車を上手く操れる人は最高のよりどころであるブラフマン(至高の状態)に到達できます。
出来事は全て平等で同一の存在だと知る
ヨガにとって哲学とは、生活に活かせるものでないといけません。では、ヨガの実践を行っている人にとって、ブラフマンとアートマンについて知ることは、どのような意味があるのでしょうか。
ヨガ実践者がブラフマンとアートマンについて知る意味
ヨガの練習とは、「自我」を手放すことです。
私たちの生活では、自分自身と他人を区別することで様々な心の苦しみが生まれます。そのため、「自分の」という自分と他者を区別する思考の癖を弱めることで、多くの衝突を回避することが出来ます。
多くの人間関係の衝突が起こってしまうのはどうしてでしょうか?
「自分の利益」と「他者の利益」を区別して考える思考が原因だからではないでしょうか。「自分」という枠組みで考えることは、「自分」に対する執着を生み、自ら悩みを作り出してしまいます。
ブラフマンにとっては、「良いこと」と「悪いこと」の区別もありません。
クリシュナは嘆くアルジュナに次のように言いました。
あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者に対しても生者に対しても嘆かぬものだ。(バガヴァッド・ギータ2章11節)
ギータの冒頭・第1章では、どれだけアルジュナが苦しい状況にいるかを説明しますが、クリシュナの教えは、「嘆くべきでない」というものでした。
私たちの心は、様々な理由を考え出して「良い」ものと「悪い」ものを区別しようとします。しかし、ヨガで本当の穏やかさを手に入れた人にとっては、この世に起こることに「成功」や「失敗」といった違いがありません。全ては、私たちの心が作り出した幻影だと知っているからです。
「自分」と「他人」、「良い」と「悪い」と区別している全てが、平等で同一の存在であることを知るのがヨガ哲学です。
しかし、知識として学んだことを、信じることは難しいですね。
悲しいことがあった時に、「哲学書に書いてあったから、私は悲しむべきでない。」と自分を言い聞かせるのがヨガ哲学ではありません。自然に生まれる思考が本質に近づくように鍛錬するアプローチがヨガの練習です。本来あるべき自分の姿を体験するために行う練習です。
知識と実践、両方が揃うことで私たちの人生はとても幸せなものになります。ヨガの知識を、ヨガの練習と生活に活かせられるようになると良いですね。