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複数のヨガが記されている理由
『バガヴァッド・ギーター』の中で説かれるヨガは一種類だけではありません。様々な個性を持った人にとって、それぞれに合った実践方法が必要だからです。通る道は違っても最終的には同じ目標に到達できると考えられています。
ヨガ(瞑想)によって真実に到達する人もいますが、それが難しい人のために、別の方法も記しているのが特徴です。
『ヨガ・スートラ』などの経典では1種類の修業についてのみ書かれていますが、ギーターの中では、『ヨガ・スートラ』に書かれたヨガも、複数あるヨガの一種類にすぎないと考えています。
目的を重んじるギーターのヨガ
ギーターの中でヨガを定義する時、方法よりも最終的な目的に重きを置きます。同じ行動をとっていても、目的がズレてしまうとヨガと呼べなくなるからです。例えばアーサナの練習をしていても、身体の柔軟性やシェイプアップに意識が向いている場合、それはヨガではなく、エクササイズやストレッチになってしまいます。
ギーターにおいて大切なのは「何をするか」ではなく、「どのようにするか」または「なぜ、するのか」なのです。その部分をしっかりとおさえていれば、どの様な行動でもヨガの実践となり得ます。
目的は、アートマンへの到達
『ギーター』のヨガでは究極の自分であるアートマンへの到達を目的としています。
アートマンとは、宇宙全体の唯一の真理であるブラフマンを個として見た状態で、クリシュナはブラフマンの人間界での姿です。『ギーター』ではクリシュナに到達するという言葉とブラフマンの状態が同意で使われています。
『ヨガ・スートラ』のヨガでは、プルシャ(真我)の状態に到達することが目的です。『ギーター』と『ヨガ・スートラ』を読み比べると、初めは全く違う内容が書かれているように感じますが、アプローチが違うだけで、本質は類似しています。
ギーターに記された6種のヨガ
実際にクリシュナが『ギーター』の中で説いたヨガには、次の6種があります。
- バクティヨガ(神への信愛のヨガ):神への深い信仰心によって神の状態に到達する
- ギャーナ・ヨガ(知識のヨガ):真理を学ぶこと
- カルマ・ヨガ(行為のヨガ):行為を神への捧げものとして行う
- アビヤーサ・ヨガ(常修のヨガ):常に神を念祷する
- ブッディ・ヨガ(知性のヨガ):知性を備える者とはサマディ(三昧)に入った人のことを示す。つまり瞑想を行うこと
- サンヤサ・ヨガ(放擲のヨガ):全ての行為への執着を放棄すること。カルマに囚われない状態
『ギーター』はバクティヨガ(神への深い信愛)で有名な文献です。バクティはどのヨガを実践する時にも根底に抱くべきものとして語られます。神への信愛を抱きながら、自分にとって一番ふさわしい方法で神に近づく方法を実践するのが『ギーター』のヨガなのです。
ギーターのヨガ・実践編
ギャーナ・ヨガ(知識のヨガ)
真理を学ぶことをギャーナ・ヨガと呼びます。『ギーター』でいう真理とは、「宇宙の仕組み・ブラフマン」「自身の本性であるアートマン」「苦しみとなるカルマ(業)に束縛される仕組み」「解放のための行為」など。
これらの真実を知ることでヨガの達成が叶うとされています。
それは、苦から解放されて永遠の至高を得る学びでもありますが、ヨガの知識は行為のためであり、本などで知るだけでは叶いません。ギャーナ・ヨガで学んだ知識はカルマ・ヨガ(行動)と常に一対として考えられています。
- 実践例:『ギーター』などの経典を読む。師から講義を受ける。
カルマ・ヨガ(行為のヨガ)
カルマとは、私たちが行う全ての行為とその結果です。生命がある間、人間は一時として行為せずにいることはできません。言い換えれば、通常人は、行為から逃げられないということ。しかし、正しい認識からの行為には、業のしがらみが生まれません。
このように、正しい認識からの行為によって解放を目指すのがカルマ・ヨガです。全ての行動は正しい知識が必要なので、ギャーナ・ヨガ(知識)が必ず関わってきます。
- 実践例:神のための行為として掃除や炊事などの慈善活動を行う。
アビヤーサ・ヨガ(常修のヨガ)
常に意識を神に専念することをアビヤーサ・ヨガといいます。深い集中状態のブッディ・ヨガができない人であっても、常にクリシュナを念想することによって最高のブラフマンの状態に到達することができます。
- 実践例:神へのマントラを唱える。
ブッディ・ヨガ(知性のヨガ)
瞑想状態へと至ることをブッディ・ヨガといいます。
全ての感覚を制し、専心し、私(クリシュナ)に専念して座るべきだ。感覚を制した人の知恵は確立する。(バガヴァッド・ギーター2章61章)
ヨガ・スートラの八支則で、サンヤマの修業に相当します。ヨガ・スートラでは集中するための対象に決まりはありませんでしたが、ギーターではクリシュナへの集中によってブラフマンの状態に到達できるとしています。
サンヤサ・ヨガ(放棄のヨガ)
ここで言う「放棄」とは、行為をしないことではなく、行為しながらも放棄する、と言うこと。人間の苦はカルマによって生まれると説かれていますが、人間は、このカルマをもたらす行為から、自らを解放することができません。息をすること、考えること、食べること……、人間として生を得たものは、生きることそのものが行為であるからです。
サンヤサ・ヨガが目的としているのは、それら行為を働きながらも、行為一つひとつへの一切の執着を放棄すること。行為を行っていながらも、心がその結果に一切囚われなくなった時に「行為の放棄」は叶います。
サンヤサ・ヨガは、カルマ・ヨガの実践によってのみ起こる状態です。
日常生活さえヨガになる、クリシュナの教え
例えば『ヨガ・スートラ』や『ハタヨガ・プラディーピカ』のヨガを完璧に実践しようとすると、出家して小屋に籠って瞑想に集中できる環境にいないと難しいでしょう。しかし、そうした環境に恵まれる人はほんの一部です。大半の人は、『ヨガ・スートラ』のヨガを実践しながらも、社会生活との折り合いをつけなければいけません。
仕事がとても忙しい状態にあったり、子育て中の親御さんなど、どれだけヨガへの思いがあっても充分な実践を物理的にできない人は沢山います。一方、ギーターのヨガは、日常生活さえヨガの実践となり得るのです。
例えば育児や家事、与えられた仕事をまっとうすること……その全てはカルマ・ヨガとなります。ヨガの先生に合って指導を受ける時間がなくても、クリシュナは彼を信愛する人をいつも見守って愛してくれます。
「今あなたのできることが、あなたのヨガ」だというギーターのヨガは、全ての人に与えられたヨガなのです。
“ヨガは一種類だけでない“ことを知ると、自分のヨガに自信が持てる
著者の体験談ですが、ヨガの練習に集中し始めたばかりの頃、「ここのヨガはこうだ」、「○○ヨガは○○ヨガよりも優れている」などと、比較をするような話を聞くことが多く、私自身もその議論に加わっていました。
アーサナの練習だけをみても、とてもゆっくりとリラックスした状態で行うヨガもあれば、対照的に強度の高いアーサナにチャレンジするクラスもありますが、どちらが正解ということはありません。
アクティブになり過ぎた人にとっては、体内の火を燃やすような作業を行うことで静けさに近づける人もいます。一方、意識的に静かな時間を設けることの方が効果的な人もいます。どのクラスを選ぶかの基準は、自分に合っているか否か。クラスの良し悪しや優越をジャッジすることではありません。
また、アーサナが向いている人もいれば、ギャーナ(知識)から救われる人もいたり、また特別なことをしなくても日常生活をカルマ・ヨガとして行うことで幸せになれる人もいます。
クリシュナにとってヨガとは平等の境地です。道は一つではなく、どの道を通っても大丈夫だと知ることで、自分自身の道、生き方が見えてくるかもしれません。