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ヨガ哲学におけるカルマとは?
ヨガ哲学を学ぶと、必ずカルマという言葉が出てきます。
「これはカルマだから」といった言い方をすることも多いので、カルマをなにやら「運命」や「宿命」のように考えている方もいるかもしれません。しかし、カルマのコンセプトはもっとシンプルで身近なものです。
ヨガを含めたインドの考え方を理解するために土台となるカルマについてご説明します。
カルマは行為。原因となり結果を生む。
カルマは直訳すると「行為」や「業」という日本語にあたります。業とは、「自業自得」の業です。自分自身がとった行為(業)によって、自分が結果を受けるというのが自業自得の意味です。
例えば、暴飲暴食をしていれば、1カ月後には、当然太ってしまいます。一方、コツコツとヨガを練習していれば、いつの日か身体はしなやかになっているでしょう。
自分の今とっている行いが、未来を作る原因となっているわけです。このことを認識していると、自分自身の行動が変わってきます。
インドの思想では、いつも、このカルマのコンセプトが土台にあります。それを理解することによって、ヨガ哲学も格段と分かりやすくなります。
すべてのものには必ず原因があるという考え
「あらゆる物事には必ず原因がある」というのはインド思想の基本的な考えです。
原因と結果とは、下記のように物質的な材料を表すこともあれば、ものごとの結果を示す場合もあります。
- 物質的な材料:牛乳からバターが作られる
- 事柄:意味し勉強をしたから成績が上がった
急に現れたように見えるものも、偶然起こったように見えるものも、私たちが認知できないだけで必ず原因があります。
例えば、雨や雪は急に空から降りますが、それは雲を形成している水や氷のつぶが、地上に落ちてくる現象です。雲は、海などから蒸発した水蒸気によって作られます。海の水は川から流れ、川は山に振った雨や雪によって湧き出ます。
このように、人間が認知できるかできないかの違いがあっても、すべてのものには原因があるのです。
宇宙はすべてブラフマンだという考え
原因と結果を宇宙規模で考えた時、この世に存在するすべての原因は、ブラフマン(宇宙の根本原理)です。
これはヒンドゥー教の土台となる思想であり、『バガヴァット・ギーター』もこの考え方に従っています。「すべてはブラフマンを起源としている」という説を哲学用語では一元論と呼びます。
代表的なインドの哲学者であるシャンカラは、不二一元論という学説を説き、ブラフマンと世界に存在するすべてのモノの関係を、次のように粘土とツボに例えています。
- 一個の土の塊から壺、皿、釣瓶(つるべ)などが生まれる。
- これらは全て土を本質としている。
- 土の変容物は言葉の定義によって存在する。
- これらは言葉による虚妄であり、実際は土のみが存在する。
ブラフマンという言葉にピンとこない方もいるかもしれませんが、ここで大切なのは、あらゆるものには原因があると理解することです。原因によって未来が作られると分かると、原因を作っている、まさに「今この時」をもっと大切にするようになります。
カルマの3段階
カルマは必ずしも瞬間的に結果として現れません。次の3つの段階を経ることで、現象化すると考えらています。
- 原因となる行動を起こす(カルマを生む)
- 潜在記憶が発生する(存在しているけれど見えていない)
- カルマの結果が表れる
この原因となる行動と、結果の間に時間が空くと、私たちは原因と結果を正確に認識でなくなります。
例えば、階段から落ちた時、その場で捻挫をすれば原因がすぐに分かります。
一方、その場では痛みが出ず、これまでどおりに生活ができたのに、数カ月後、身体のゆがみや、腰の痛みが出たとします。そのとき、階段から落ちたことを忘れていると、原因と結果を結び付けて考えることができなくなっています。
過ぎ去ったものも、いまだ生じていないものも、今存在しているものである。異なる時間帯にあることで異なる形態にある。(『ヨガスートラ』4章12節)
「無」から発生するものはありません。生じたものはすべて、すでにあったものと考えられています。これを因中有果論と呼びます。
ものごとが後から顕現すると未来と呼ばれ、すでに現れたものは過去と呼ばれます。
しかし、その原因となるプラクリティは現在も目に見えない状態で存在しています。過去・現在・未来の区別は、すでにあった潜在記憶が顕現するタイミングによって認識されます。
今日、他者に対する暴力を行った場合、その応報がすぐに起こるかもしれませんし、もしかしたら今世では免れたのに、来世になって現れるかもしれません。
自分の行いの結果は、目に見えなくても存在し続けていることを意識すると、自身の行動も変わってきます。
良いカルマと悪いカルマについて
良いとされる行動を行えば好ましい結果が起こり、悪い行動によっては好ましくない結果が起こります。
禁止された行いをすると必ず罪が生まれる。指示された行いによって功徳が生じる(『シヴァ・サンヒター』1章22節)
行為の結果には2種類存在する。天界と地獄である。天界には様々な種類があり、地獄も同様である。(『シヴァ・サンヒター』1章24節)
悪い行いをした時、すぐ結果には現れないこともあります。そのため、「バレずに済んだ!」と思って、反省せずにやり過ごしてしまうかもしまいません。しかし、すでに書いた通り、行為の結果生まれた潜在記憶は残ってしまっています。
後から、思いもよらなかった形で顕現することもあります。悪行の結果は「苦」であり、善行の結果は「楽」です。そのため「楽」を望むものは、さまざまな善行を自ら行います。
苦も楽も永遠ではない
カルマ(行為)が結果の原因となるのは、行いによって3つのグナのバランスが崩れるからです。プラクリティによって作り出された物質世界は、全て3つの性質(3グナ)のバランスによって作られています。
サットバ性(純質)の高い行動を行えば、優勢となったサットバ性による結果が起こり、タマス性(暗質)の行動を行えば、優勢になったタマス性による結果が表れます。
しかし、行為によって生まれたれ果報が解消されれば、元に戻ります。
悪行の果報が尽きた時には必ず地上への再生が起こる。善行の果報が尽きた時も同様である。(『シヴァ・サンヒター』1章28節)
物質世界に現れるものは何一つとして永遠ではありません。たとえ、苦しいカルマを現在背負っていたとしても、それは必ず解消できるものです。
このように、カルマによって現れるものごとは常に有限であるため、永遠の幸福を求めるヨガ実践者はカルマを超越することを求めます。
ヨガを極めた人にとってのカルマ
一般社会では、好ましい結果を求めて善行を行います。しかし、ヨガの場合には、あらゆるカルマの結果に執着しないことを説いています。
アルジュナよ、執着を捨て、成功と不幸を平等のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。(『バガヴァット・ギーター』2章47節)
「苦」や「楽」といったカルマの結果は、どちらも瞬間的なものであり、本来ヨガで求める平穏さとは違います。
カルマの結果への執着を完全に手放したときに、本当の平和と幸福が得られます。
ヨーギーのカルマは白くも黒くもない。それ以外の人のカルマは三種類(白・灰・黒)である。(『ヨガスートラ』4章7節)
良い行いや、好ましい結果は快適なものであるかもしれませんが、常に良い結果を求め続けなくてはいけない状態は平穏だと言えません。私たちは「成功しなくてはいけない」という自分へのプレッシャーからも解放されるべきです。
自分が行う行為を丁寧に遂行して、その行い自体に満足することができれば、カルマの結果へのしがらみが消えます。
カルマについて、考えて、そして手放す
無頓着になることと、執着を手放すことは違います。まずは、カルマについて理解して、その上でカルマへの執着を少しずつ手放しましょう。
結果に惑わされないためには、現在自分自身が行っている行為への意識を上げていくことです。集中して試験勉強を行えば、たとえ試験の結果が好ましくなくても、すでに努力して知識を増やした自分自身に満足できているはず。
また、その努力はしっかりと潜在意識に記憶されているので、目先の試験の結果には反映されなくても、きっと後から自分に功徳が訪れます。
すぐに見える結果に踊らされずに、その瞬間ごとの自分の行いにしっかりと意識を向けましょう。結果への執着が薄まった時に、「今この瞬間」を楽しめるようになります。