幸せが連鎖していく、ヨガの場を提供したい
わたしは、統合されたバランスのいいヨガが好きです。何かひとつの思想に偏ることなく、普通の人が日々の生活に違和感なく取り入れられるような。クラスでヨガを教える際にも、そうした部分を大切にしています。
いま展開しているレギュラークラスに通ってくださる生徒さんの中には、10年以上の付き合いの方もいらっしゃいます。妊娠・出産を経て、再びわたしのクラスに通ってくださる方もいて。なんというかお互いに人生を一緒に生きている仲間のような感覚になることがあるんですね。
だから、クラス中にケガをして欲しくないし、学びが人生を豊かにしてくれるものであることを願っているんです。おだやかさのなかで、みんながほっこりと自分が幸せであることに気づいてもらえるのは、うれしいことですし、生徒さんたちの家族や仲間にまで、その幸せが連鎖してほしい。そんなことをいつも祈っています。
ジャッジを手放す
一時的に、ヨガの神秘的な世界観や、ストイックな向き合い方に熱中することもあると思います。わたし自身、そういう時期がありました。結果として、大きな成長がそこにはありましたし、しばらく経つと人のことを自分の設定した物差しでジャッジしていることにも気づき……。それって、今回の私の人生にとって、まだ必要なことなのかなって、思ったんですよね。
みんな、それぞれ一生懸命に向き合っていることがあって、他の人がこれまで体験してきたことの深さや、その人なりの事情は、ジャッジできないもの。基本的に、自分のやることに集中していればいい。いまは、警察官や裁判官の役割を手放して、よりゆるやかなものの見方になってきています。それがヨガのおかげなのか、歳を重ねたからなのかは、わかりません。
制限のない、シンプルで心地いいヨガが好き
ヨガに没頭していると、ものの見方が変わり、幸福感やうまくいっているような感覚に満たされると、それがすべてヨガのおかげ、と表現してしまうこともありますが、それは正確な表現なのかなって。
インド的な思想を生きることが、いま日本で家族と共に過ごす「わたし」にフィットするのであればいいけれど……。ヒンドゥー教徒でもない私にとって、たとえば「いまの自分は、これまでの自分の結果で、これから先の選択が未来を作っていく」といった因果の教えを、すべての事象に当てはめて考えていくことは、人や社会が持っている可能性を狭めてしまう危険性もあると思います。
生まれたときから心身に何かしらのユニークさを持っている人もいるじゃないですか。女性で生まれるっていうことも含めて。その理由を過去世や親のカルマとし、だからこの人生では、カルマを解消するために徳を積む、という思想がインドのカースト制度や男尊女卑の文化を固定化している気もします。
そういう意味で私はいま、ヒンドゥー教的なヨガを100%礼賛していなくて。でも、いいところもたくさんあるから、使える部分を使えばいいのかなって。盲信しすぎず、自分の体験を大切にしながら、視野を広げていくことを心がけています。