ヨガと禅は似ている?
正確に言えば、ヨガと禅は異なるのだと思う。けれど、その教えには共感できるし、目指すものは同じだろう。
もとよりヨガの考え方以外はNGというわけはなく、生きる上で、自分をよりよく生かし、命を十分に謳歌できれば、もう万歳。
さらに、ヨガを理解するために、さまざまな教えの理解が助けになることもある。禅はその一つとして、どうやら良さげだ。
曹洞宗の尼僧が読み解く
今読んでいる本が素晴らしすぎる。『道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ』青山俊菫著(NHKライブラリー)。『Yogini』の監修者としておなじみの小山一夫先生より編集部に寄贈された一冊だ。
著者の青山俊菫は1933年生まれ。数え5歳の時に曹洞宗無量寺に入門、15歳で得度し、1984年より特別尼僧堂堂長、正法寺住職、無量寺住職を兼任。1988年には東西霊性交流の日本代表として渡欧するなど、国際交流に積極的に取り組む。参禅指導、講演、執筆などで活躍する他、茶道、華道の教授としても禅の普及に努めている。
著書も多く、この本は2005年に発売されている。
本のタイトルになっている典座(てんぞ)とは、寺で食事をつかさどる役割の人。その教訓を記した本が曹洞宗の中にあるそうで、紹介する一冊はそこには何が書いてあるかという内容だ。
だからといって、これは、寺特有の食事やレシピの本かと思うのは早合点。著書本人も言っているが、食事とのかかわりは、つまりどう振る舞うか、どう生きるかということで、それらを柔らかい解釈で説明してくれているのだ。
仏性はどこにあるのか?
最初から、書き残したい文章か続いているが、それを全部していると写本になってしまうだろう。なので、ぜひ本を手に取って読んでほしいが、ここでは気になるフレーズを挙げていこう。
私どもの耳に親しい言葉に「悉有仏性」(しつつぶっしょう)という言葉があり、一般には「悉く(ことごとく)仏性有り」と読まれています。(中略)道元さまの読み方はそうではありません。「悉有は仏性なり」とまっすぐにお読みになるのです。有はあるなしではなく、存在そのものをいうのです。存在そのものが即仏性だというのです。むしろ仏性が縁にしたがって無限の展開をして、犬となり猫となり、みなさんとなり私となったのだというのです。
道元禅師は曹洞宗の開祖。「日常生活すべてが修行である」と説いている。その道元禅師が説いた「ことごとく仏性あり」は、まさにヨガのプルシャとプラクルティの考え方と一緒だ。
前出の小山先生は、よくヨガと曹洞宗の瞑想の相似性を話してくれていたが、上記の文章でわかるようにまさにそのまま。一気に曹洞宗に親しみを感じるほどではないだろうか。
精進の手本
瞑想の話にしても、なるほど! という言葉がたくさんある。そのうちの一つを紹介しよう。
したがって、悟りをほしがる私も、迷いを嫌う私もそこにはいないはずです。(中略)ほしがったり、キョロキョロしない。今やってることを何かの足しにしようと思わない。今やっているそこへいろいろなものを持ち込まない。おごりたかぶったり、ひがんで落ち込まない。ひたすらに、まっすぐに、無所得、無条件でそれに立ち向かう。そのこと自体を目的として打ち込んでゆく。
そのお手本は天地の姿を見ていればわかります。太陽や雨や風は「何のために」とは考えません。ただ照り、ただ降り、ただ吹いているのです。花もただ咲いているのです。(中略)これが、純一の精進の手本です。
キラキラしているのはなぜ?
ヨガをする私達は、時々考えすぎることがある。どう座るのか、どう体を動かすのか、どう正しく生きるのか…。しかし、それは脳が働きすぎなのかもしれない。本来はもっと自然にあればいい。何も求めず、何とも比べず、名もない一つの存在として、ただ循環の一つとして。
もしそんな風に生きられたら、そんな風に毎日のさまざまなことと向き合えたら、きっといつもすがすがしく、キラキラとしていられるのではないだろうか。
決してSNSのフォロワーが多いからとか、クラスにたくさん人が来るからとか、スタイルがいいからといった理由ではないはず。
自然は、そこにある姿がそれだけで美しいのだ。そんなことを改めて、ヨガの教典とは違う言葉で教えてくれる本。日常にたくさんの視点を持つためにもオススメだ。
『道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ』
青山俊菫/NHKライブラリー
Text:Yogini編集部