アヒンサーとは非暴力、傷つけないこと
ねえねえ、ヨガの八支足のヤマとニヤマって、覚えるの大変だよね。五つずつってなかなか頭に入らないよ。
そうそう! でも、これって「すごくヨガ」だって、インストラクターの間では言うじゃない。「これこそヨガ」とか。「そうだよねー」って合わせてるけど、実際は頭の中で「えっとえっと…」と五つを探してて、でも何だっけ??? となってる(苦笑)。
誰かが言ってたけど、とりあえずヤマの「アヒンサー」を覚えておけば、多くがそこに集約されるみたい。
アヒンサーって非暴力ってことでしょう。傷つけないとか。
その後に続く、サッティヤ=ウソをつかない、アステーヤ=盗まないとか、ヤマの項目って、結局どれもが根底のところで、暴力をふるわない、傷つけないということだっていう意味。
そうか、ウソをつくとか、盗むとかは傷つけることだもんね。
だから、項目を覚えるテストだったらもちろん五つは覚えないといけないけど、ヨガの教えが言いたいこととして考えるなら、傷つけないということを理解して、それをいろいろなケースに当てはめればいいんじゃないかな。
ヤマは「他人とのつき合い方」だって聞いたことがある。
でも、傷つけると、結局自分にかえってくるよね。だから、対象は自分でもあるのかな?
ヤマにはアヒンサー、サッティヤ(ウソをつかない)、アステーヤ(盗まない)、ブランハチャルヤ(適切なつき合い方をする)、アパリグラハ(必要以上にものを持たない)の5つがありますが、ベースとなっているのがアヒンサーです。ウソをついたら人を傷つける可能性があるし、盗むことも誰かを傷つける可能性がある。すべてがヒンサー(暴力)につながっているんです。アヒンサーにつながる行動を取ると、相手を傷つけた分、自分の周りにヒンサーが増えます。そうするとマインドは落ち着かなくなり、それに対処するだけで人生が終わってしまいます。それはスッカ(幸せ)かドゥッカ(苦しみ)かと言ったら、幸せではなく、間違いなく苦しみ。つまり、人を傷つける行為をしていたら、ヨガのゴールには行けないのです。
なぜ守れないの?
ヤマに出てくることって、子どものころから言われていて、やってはいけないとわかっているのに、何でやっちゃうんだろうね。つい、って。
そうだよね。でも、ヤマみたいな形で言われると、「はっ」とするじゃない。それってわかっているつもりだけど、わかっていないということの現れかも。
ヤマ、ニヤマに反する行動の根底には、貪欲さ、怒り、執着や妄想があると『ヨーガスートラ』には書かれています。上の立場になりたい、相手を陥れたい、手放したくない、失いたくないなど。さらに、34節にはヤマ、ニヤマに反する、人を傷つけるような行動を取ると、世界が歪んで見えるようになる、自分が陥れられるんじゃないかと永遠に苦しむようになってしまうと、行動の結果も書かれています。その上で、そうならないためには、ものごとをいろいろな角度から見るようにしましょう、と説いてくれているのです。
いろいろな角度から見る
いろいろな角度から見るってわかっているけど、すぐにできることでもないかも。やっぱりいつも同じような考えにたどり着くことが多いもの。
何か常識的なところでぐるぐる回っているだけとかね。
別の角度から見られるようになるコツってあるのかな?
別な角度から考えることを『ヨーガスートラ』では、プラクティシャバーバナ=反対側(代替的)な心の態度、と言います。ただ、ここには「自分の本音を大事にする」ことも含まれています。自分は本当はどう思っているのかを大事にすれば、自分を傷つけないことにもなるし、相手を傷つけないことにもなる。アヒンサーになるのです。
忖度してしまう心…
本音を言うと、自分を傷つけない…か。確かに、自分にウソをついていることって苦しいものね。言いたいことを言わないとか。でも、言ったら、場の雰囲気を壊すかもと思うと、忖度しちゃう…。
そこが難しいところ。自分にとって納得することを話して、相手がイヤな思いをしたら、結局自分がそれで傷ついてしまったりと、ちょっと悲しいループに入っていく。
アヒンサーの定義は時代や地域によっても変わり、アヒンサーが何かという画一的な答えはないんです。だからこそ、自分自身が一つひとつを意識的に考えることがすごく大切。例えば、化粧品を選ぶ時に動物実験をしていないものにするとか、元気であるために肉を食べるけど感謝して残さずいただくとか。受け身ではなく、自分の中でどこまでがOKで、どこからがヒンサーになるのかを意識的に考えてほしいと思います。
自分の中でどう思うか、本当はどう思っているのかを内観してみることが大事なんだね。
そうだね。アヒンサーを守るということは一つのきっかけであって、それに対してどう考えるのか、自分自身を見つめることがヨガの教えていることなのかもしれない。
ただやみくもに「傷つけない」ということを守ろうとするのは、押しつけられた考え方を行っているだけだから、それはヨガではなく“ヨガ信仰”になってしまうのかも。
傷つけないってどういうことなのか、ちょっとゆっくり考えてみよう。
出典:『Yogini』Nol.66
監修:森田尚子
もりたなおこ。クリシュナマチャリアのヨーガ正式指導者。ヴェーディック・チャンティング正式指導者。ヨーガスートラ講師。
Text:Yogini編集部