こんにちは! 丘紫真璃です。今回は日本の作家、庄野英二の「星の牧場」をみなさんと見ていきたいと思います。
1963年に理論社から出版された「星の牧場」は、児童文学と呼ばれることが多いようですが、子どもが読むものというよりも、むしろ、大人が味わうファンタジーだといえるでしょう。ほかにはない美しさを持った作品で、読み終わった後に「星の牧場」の美しい世界が、しみじみと胸に広がっていきます。まだ読んだことがないという方には、ぜひ一度は読んでいただきたい名作です。
それでは、前置きはこれくらいにして、早速「星の牧場」の世界に飛びこんでみましょうか!
星の牧場とは
作者の庄野英二は、1915年生まれ。教師であった彼は、弱冠30歳で帝塚山小学校の校長に抜擢されるという秀才で、小説、戯曲、詩、絵画など多数の才能があった優秀な人でした。帝塚山学院高等学校長など教師の仕事をつとめつつ、作家活動に励みました。
1963年に「星の牧場」を刊行。この作品で、第11回産経自動出版文化賞、第2回野間文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞などを受賞しました。また、宝塚歌劇団なども、この作品を舞台化して上演しています。
戦争中の記憶がない
「星の牧場」の主人公は、イシザワモミイチ。幼い頃から山の牧場で元気に育ちましたが、戦争が始まると軍隊に召集されてしまいます。戦争から帰ってきた時、モミイチは頭がおかしくなっていました。戦争中の記憶がほとんどなかったのです。
覚えていることはツキスミという馬の世話係になったことと、インドシナ半島にいた時のことだけ。彼は、インドシナ半島で、ツキスミにバナナをやったり、水浴びをさせたりしていたそうです。 その他のことは、まるで彼の記憶の中にありません。
3年ほど戦争に行っていたはずなのに、大勢の馬達を沈没事故で失ったことや、戦いに加わった時の事などは、まるきり忘れてしまっていたのです。
ツキスミの馬蹄の響きとジプシー
さらに戦争から帰ってきた後、モミイチはおかしなことを言い出します。
それは牧場で働いている時のことでした。突然、馬蹄の響きが聞こえてくると嬉しげに叫び出したのです。ツキスミが走っている音だと、モミイチはニコニコしながら言うのですが、周りの人達の耳には、馬蹄の響きなどまるで聞こえてきません。
牧場の人達は、モミイチが幻聴を聞いているんだろうと思い、とても不憫に思います。牧場の人達が、自分の言葉を信じていないとわかると、モミイチは何も言わなくなりました。それでも、彼の耳には何度となく、馬蹄の響きが聞こえてくるのです。
そんなある日、仕事で一人、山に入った時のこと。モミイチの耳に、またツキスミの馬蹄の響きが聞こえてきて、彼はその音を追いかけて、山奥まで分け入ります。
ところが、馬蹄の響きを追いかけて出会ったのはツキスミではなく、山奥で暮らすジプシー達でした。ジプシー達はみんな、クラリネットやオーボエ、フルートなどの楽器を手に持っており、山を気楽にさまよい歩きながら暮らしていました。モミイチは、そんなジプシー達の演奏に加わったり、おしゃべりをしたりして、交流を深めていきます。
ところが、一つ不思議なことがありました。それは、どのジプシー達もモミイチが戦争に行った時に同じ部隊にいた兵隊仲間とそっくりの様子をしていたことです。モミイチは、そのことを不思議に思いながらも、ジプシー達との出会いを重ねていきます。その様子が、たびたび聞こえてくるツキスミの馬蹄の響きと重なって、実に美しい描写で描かれていくのです。
瞑想で傷ついた心を回復させる
牧場の人達は、ジプシーの話はモミイチの幻想だと思いこんでいます。実際、モミイチが出会うジプシー達の様子は、モミイチの戦争仲間とそっくりの様子をしているわけですから、彼のジプシー達は、牧場の人達がいう「現実の人」ではないのでしょう。
しかし、モミイチにとって、ジプシー達はまさに「現実」であり、彼らは馬の蹄が聞こえてくるというモミイチの話をバカにせずに受け止めてくれます。
牧場の人達に頭がおかしいと思われていることを知っているモミイチは、牧場ではほとんどものをしゃべりませんが、ジプシー達とはふつうに語り合います。
山奥の花畑の中で、あるいは山奥の水車場で、あるいは月の綺麗な夜に大きな木の上で、クラリネットやオーボエ、フルートを聞きながら、モミイチはジプシー達と交流を重ねます。
そうしたジプシー達との交流を重ねれば重ねるほど、モミイチの耳にますますはっきりと、ツキスミの馬蹄の響きが聞こえてくるということは、とても印象的です。そして、ジプシー達と過ごすうちに、モミイチは、馬蹄の響きだけではなく、ツキスミの姿までも見るようになりますが、それはまるで、ヨギーが瞑想をして、心の奥深くまで入っていった時にプルシャをのぞき見ることと同じことのように思えます。
モミイチは、コケモモのうえにはらばいになって、泉の水をのぞきこんだ。
泉の水にじぶんの顔がうつっていた。そして、じぶんの顔のうえからもうひとつの顔がのぞいていた。(略)馬の顔であった。ツキスミがじぶんの顔のうえから泉をのぞきこんで、その顔がうつっているのであった。
モミイチは、いつかこんな風景を見たことがあった。インドシナのメナム河のほとりであったか、アンボン島のなぎさであったか、それはわすれたが、たしかに見たようなおもいでがあった。
ー『星の牧場』より
モミイチの瞑想がハッとするような美しさを持っているのは、彼が戦争で受けた傷がそれだけ深いからではないでしょうか。美しい瞑想の世界にたびたび訪ねていかなくてはならないほど、モミイチは深い傷を負っていたのです。
モミイチの記憶がないものですから、物語の中には、彼が戦争中に見た悲惨さは全くといっていいほど描かれていません。ここに描かれているのは、戦争のために東南アジアを訪れた時に見た、ヤシの木陰で機織りをする少女や、トルコ玉やジルコン、アメジスト色の小石を踏んで渚を歩くカニ、アジアのアンコロンという竹の楽器など、アジアン的な美しさを持ったものばかりです。そのことがかえって、彼が失った記憶の中には、どんなに恐ろしい光景があるのだろうと読み手に感じさせるのです。
記憶を失うほどの深い傷を負ったからこそ、モミイチは何度も美しい瞑想世界をさまよいます。傷ついた時、人は瞑想せずにはいられません。瞑想は、波立つ人の心を落ち着け、静けさの中に導いてくれるものなのです。
ラスト近く、山に行くたびにモミイチの幻聴が激しくなると心配した牧場の人達は、モミイチが一人で山に入ることを禁止するようになってしまいます。しかし、禁止されればされるほど、彼の瞑想世界はますます幻想的に、ますます美しくなるのです。
そして、読み手である私達は、それが美しくなればなるほど、かえって彼が戦争で受けた傷の深さを思い知ることになります。
戦争で失ったツキスミや、戦争仲間達にそっくりのジプシー達の瞑想世界をモミイチと一緒にさまよう時、私達は、物語に一言も書かれていない戦争の恐ろしさを、心で感じます。
美しいと同時に恐ろしい名作。興味がある方は、時間がたっぷりあいた一人の時間に、じっくりと読んでみてくださいね。
参考資料
- 参考文献:『星の牧場(2003年)』庄野英二著/(理論社)