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良い行いをしていても、かえって悪いカルマを生んでしまう場合があります。
ヨガの本場であるインドには沢山のヨガ施設があり、カルマ・ヨガ(行為のヨガ)を行っている人がいます。しかし、形だけの慈善行為では自分を磨くことができません。せっかく良いことをしてもエゴが高まってしまってはもったいないですね。
『バガヴァット・ギーター』では、カルマ・ヨガ(行為)とギャーナ・ヨガ(知識)は1対のものだと説いています。
今回はギャーナ・ヨガの大切さについて説いてみます。
良い行いも正しい知識がないと間違った方に行ってしまう
ヨガは実践が一番大切だということは、古くからヨガの聖者たちによって説かれています。
ヨーガ行法の実習がともなったひとにしか成満はあり得ない。実習しない人にどうして成満があり得よう。ただ教典を読むだけでは、ヨーガの成満は生じない。(ハタヨガ・プラディーピカ1章65節)
実践が大事と説きながら、同時にヨガでは必ず教典などの勉強を勧めます。
ヨガ・スートラの中ではスヴァディアーヤ(読誦)で教典を繰り返し読むことが8支則の中に組み込まれています。
実践から学ぶだけでは不充分?
ヨガは実践を通して精神的な学びを得ることが大切です。しかし、その目標が分かっていないと、同じ実践をしていても間違った方角に進んでしまう可能性があります。
例えば、ヨガの実践の1つにタパス(苦行)というものがあります。
タパスは古代からインドで積極的に行われてきた修行です。しかし残念ながらタパスの実践で苦しみを得た人たちもいます。
より鍛錬を積めばそれだけ沢山恩恵が受けられると思い込んだ人たちによって、より過酷で厳格なタパスが行われ、生命の存続よりも修行を優先した時代がありました。
仏教の創設者であるゴータマ・ブッダも悟りを開く前には断食などの過酷なタパスを6年間行っていました。その結果、肋骨は腐敗して、目の周りがくぼみ、頭皮が委縮するような姿になってしまいました。
しかし、そのような厳しい苦行を行っても悟りを開くことはできないとブッダは気が付き、タパスをやめた後にキール(乳粥)を食べ、瞑想したところで悟りを開きます。
悟りを開いた後に、その教えをかつての師や兄弟弟子と共有しようとしますが、師や兄弟弟子らは厳しい修行の中ですでに亡くなっていました。
自身が目指す場所が分からないまま実践をやみくもに行っていても、ゴールを目指すことは難しいのかもしれません。成長するための努力は大切ですが、努力の仕方を間違ってしまうとかえって身体を壊してしまったり、悩みを抱えてしまうことがあります。
ヨガの教典は、すでに経験した先人たちが記してくれた道しるべです。それを学ぶことは、正しい方向を見つけて、より実践の効果を得やすくなることにつながります。。
カルマ・ヨガの落とし穴
インドのアシュラム(ヨガ道場)の多くでは、カルマ・ヨガ(行動のヨガ)の時間があります。
カルマ・ヨガの時間には、一般的に清掃であったり、貧しい人への支援、食事の提供などの慈善活動が行われることが多いです。
しかし、カルマ・ヨガによってエゴがより大きくなってしまう場合があります。
「これだけ沢山の量の食事を貧しい人々に提供している」
「貧しい家庭の子供に素晴らしい教育の機会を与えている」
「こんなに高額な支援を低カーストの人にあげた」
慈善活動は人々の賞賛を集めやすく、良い行いをして褒められることはある種の快楽となり、時にはそれが原因で競争が起こります。
自分が他者よりいかに素晴らしいことをしたのか、比較して、勝ちたいという欲望を生みます。
彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。(バガヴァッド・ギーター16章10節)
社会的に認められたい、賞賛されたいという欲は偽善であり、自身への慢心です。承認欲求は、常に人から褒められ続けないと満たすことができません。
インドの大きなヨガの団体であっても、行っている慈善活動の規模や、信者の数、どれだけ著名な人が賛同しているかで自分の所属している団体の話を誇らしげに話す人がとても多くいます。
そういった表面的な評価に囚われてしまうと、心の安定はなかなか訪れません。
ギーターのギャーナ・ヨガで学ぶこと
ギーターでは、ギャーナ・ヨガとカルマ・ヨガは1対のものだと説きます。
愚者はサーンキャ(理論)とヨーガ(実践)とを別個に説くが、賢者はそうは説かない。一方にでも正しく依拠すれば、両方の成果を得る。(バガヴァッド・ギーター5章4節)
ギャーナ・ヨガの章として知られるギーターの第2章では、宇宙のしくみや人間の存在の本質についても学びますが、どのように行動するのか、カルマ・ヨガについて学ぶことも大きなテーマです。
どれだけ素晴らしい知識を得ても、知っただけでは人生は変わりません。その知識をもって、どのように生きるのかが最も大切です。
ギャーナ・ヨガで学ぶ正しい行動とは?
良い行動をしていても、欲があると間違った結果に繋がってしまう場合があると書きましたが、それではどのように行動すればいいのでしょうか?
例えばタパス(ヨガの練習)について考えてみましょう。
- サットヴァ(純質)なタパス:果報を期待しない。専心する。信仰をもって行う。
- ラジャス(激質)なタパス:接待、尊敬、崇拝を得るため。偽善。動揺し不確実。
- タマス(暗質)なタパス:迷える見解に固執、自己を苦しめたり、他者を滅ぼす。
世界にはサットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(暗質)の3つの性質があります。
3つの中で幸福を感じられる性質はサットヴァです。
サットヴァ(純質)なタパス
ギーターの説くサットヴァな修業とは、結果に囚われない行為です。
ヨガの練習をしている時に
「呼吸が気持ちいい。」
「筋肉が自然に緩んでいくのが気持ちいい。」
とその瞬間を感じて、”今この瞬間”に意識を向けられていれば、そのヨガの練習は実りの多いものとなります。
ラジャス(激質)なタパス
ラジャスな修業とは結果を求めて行う行為です。
「この難しいアーサナができたら周りからすごいって思われるかな。」
「毎朝5時から1時間瞑想をしている自分は立派なヨギーニ。」
このような賞賛や尊敬といった評価を求めて行う実践は、結果に対する執着を生んでしまい、本来のヨガの効果を感じにくくなってしまいます。
タマス(暗質)なタパス
タマス的な修業とは、無知によって間違った目的や方法の実践を行ってしまうことです。
先ほど書いた通り、いかに難しい修行をするか競うようなタパスは自身を傷つけているだけです。
ゆえに、ヨガでは教典の勉強も大切だと説きます。
知識は行為をすることで活きる
行為をするときに知識も必要であると書きましたが、反対に行為の伴わない知識も危険です。
愚者たちはヴェーダ聖典の言葉に喜び、他に何もないと説き、華々しい言葉を語る。(バガヴァッド・ギーター2章42節)
どれだけ素晴らしい教えがあっても、それを暗記するだけでは意味がありませんね。
ヨガ哲学は経験する哲学と呼ばれます。学んだことを実践することによってはじめて教えの恩恵を受け取ることができます。
クリシュナ神は、ヨガの知識を語った上で、行為をすることが大切だと教えます。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。(バガヴァッド・ギーター2章47節)
人は実際に体験することで深い学びを得ることができます。
「本当の私はプルシャ(真我)である、アートマン(個の根源)である。」とヨガ理論を学んでも、急に世界から苦しみが消えるわけではありません。学んだことを瞑想などの実践の中で体感することが最も大切です。
無為(行動しないこと)も間違っています。ヨガは自分で体験するまで本質を学ぶことができません。
とても厳しいと感じてしまう人もいるかもしれません。しかし、自身のヨガで自分を幸せに導く方法を学ぶことができれば、どのような状況でも嘆く必要はなく現実を楽しめるようになります。
ヨガとは何か、どのように自分を変えることができるのか、ヨガの教えを学ぶことは自分の人生を学ぶことではないでしょうか。
ヨガを実践している人は、少しずつでもヨガ哲学を学ぶことでヨガの恩恵を今よりも感じやすくなります。