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ヨガの練習の最初や最後には「オーム・シャンティ・シャンティ・シャンティヒ」と祈りのマントラを唱えることが多いです。
このシャンティとは、「平和・平穏」を意味する言葉です。
ヨガを実践していると、自分の内側が平和で満たされる感覚を感じる人も多いでしょう。
ヨガで感じた平和を自分の周りに広げていくことはできるのでしょうか。ヨガと平和について考えてみましょう。
人々が直面する争いの原因を考えてみましょう
『ヨガ・スートラ』が説く苦しみの原因「クレーシャ(煩悩)」の1つに自我意識(エゴ)というものがあります。
「自分」という認識が強いほど大きな苦しみを生み出してしまいます。
「自分」だけが世界そのものであって、「自分」という第一人称でしか物事を見ることができないと、極めて自己中心的な心が生まれます。
- 他人が幸せになっても、その自分が不幸なら意味がない
- 自分が幸せになるために多少他の人が不幸になっても、私の人生には関係ない
- 自分が他の人よりも劣っていると嫌だ
私はそんなことない!と思った人も考え直してみてください。実は、私たちの人生では他者を踏み台にして幸福を得ようとすることが日常茶飯事です。
- 難関大学に合格できて嬉しい。
- 毎年新しいファッションを楽しんでいる。
- 美味しいご飯が食べられて幸せ。
⇒その裏で必ず他者が不合格になっている。誰でも入れる大学だと幸せは感じられない。
⇒ファストファッションの裏側には発展途上国で低賃金労働者の犠牲がある。
⇒人間にとって都合が良くない植物や動物から生きる土地を奪っている。
ここに書いたことは、一般的には全く自己中心的な行いではありません。
しかし、よくよく考えてみれば、努力して志望大学に入る、お店で買い物をする、食事をする、そんな当たり前の行動さえも、自分の知らないところで誰かを犠牲にしている可能性があります。
では、犠牲を生まないために貧しい生活をするべきなのか?
それも極端な意見です。誰かから奪ってしまったら、その分自分から周囲にも与えられる人を目指すと良いかもしれません。
ヨガでは自分自身を客観的に見るトレーニングを行います。
「自分」に対する執着が強すぎると、一方的な物事の見方しかできなくなりがちです。だから自分も他者も平等に俯瞰します。
相手の立場になったらどうだろう?自分から見えないところの人の立場になったらどうだろう?人間以外の立場ならどうだろう?
こうやって柔軟な視野を身に着けることでエゴが弱まり、争いの原因が弱まります。
梵我一如:自分と世界の繋がりを感じると優しくなれる
インドには梵我一如という考え方があります。
我(アートマン):個人の根本意識
現在のヒンドゥー教に繋がる古代の哲学では、私たちは「個人」という間違った認識をしているけれど、本質的にはたった1つの宇宙意識(ブラフマン)なのだと説きます。
『ウパニシャッド』という古典教典では、土を例えに使って説明をします。
土から粘土が作られて、粘土からコップや平皿、花瓶や水瓶などが作られます。
しかし、私たちは現在の姿だけを見て「これはコップだ」と言います。そのコップも割れてしまえばまた土に帰ります。
つまり、本質を見ればコップもお皿も全て土なのです。
私たちはそれぞれが「個人」だと考えるから、他者と比較をし、争いを生み出してしまいます。
では、「全体」という意識はどのように磨けばいいのでしょうか?
ヨガのシャヴァアーサナ(屍のポーズ)を行っている時、自分と外の空間との境目が分からなくなってしまったり、周りの人との一体感を感じたりする人が沢山います。
ヨガを行って感覚が研ぎ澄まされると、自然と「全体」を感じやすくなります。
また、大自然の中で美しい夕日を見ながら、自分がこの美しい自然の一部だと感じる人も多いです。その感覚を持ち続ければ、すれ違った野良犬や、姿は見えない鳥のさえずりにさえ、一体感を感じて愛しさが生まれます。
会ったこともない人、敵対している人、自分勝手な人にでさえ、愛をもって繋がれる状態こそがヨガの目指している世界です。
争うことよりも一緒に成長の道を探す
私たちは地球という限られた資源の中で生きているので、必ず利益の奪い合いが起こってしまいます。その時、自分が利益を得るために、相手を陥れようとすることは得策ではありません。
身近なところで考えてみましょう。
本来平和を求めるはずのヨガでさえ、争いを生んでしまう場合があります。
ヨガには沢山の流派があるので、それぞれの流派の先生で言っていることが違うということもあります。そういった時に、どちらの先生が正しいかと批評をしたり、時には自分と違う流派の悪評を流したりしてしまう人もいます。
インドにはとても大きな由緒正しい伝統をもつヨガの学校がいくつもありますが、そんな立派な学校の先生でさえ「あんなものはヨガじゃない」と他者を否定することがあります。
時には、意見の違う人同士が議論を深めることで新しい発見が生まれることもあるでしょう。インドに6つある正統派の哲学学派も、お互いの意見に対して反論しながら議論を深めてきました。
しかし、相手を故意に陥れるような批判を行うことは、大きな損失を生んでしまうこともあります。
ヨガの先生が「あそこの先生は良くないから行かない方が良い」と他のヨガの悪口を行っていたら、生徒さんにとってはヨガそのものの印象さえ悪くなってしまうかもしれません。
結果ヨガ業界全体が争いの多い居心地の悪い場所になってしまいます。
片方が悪口を言ったら、他方もついつい同じことをしたくなってしまうのが人の常です。自分が携わっている社会の中にネガティブな批判の文化を持ち込んだら、お互いに足をひっぱりあって、結局全体が悪い方向に向かってしまいます。
みんな違ってみんな良いを認める
『バガヴァッド・ギーター』の中でクリシュナ神は、様々なヨガの種類を説きました。
行動によって自らを高めるカルマ・ヨガ(行為のヨガ)、真実を学ぶギャーナ・ヨガ(知識のヨガ)、神的な超意識に対する信愛を深めるバクティ・ヨガ(信愛のヨガ)、瞑想を深めるラージャ・ヨガなど様々な種類のヨガがあります。
一見相反するようなヨガの種類もあります。
ある人はカルマ(行為)の実践によって得られる経験から自分を高め、ある人は教典をひたすら学びます。実践を重視している人は「本を読む頭でっかちはヨガではない」と考え、知識を重視している人は「実践しかしない人は新体操と同じ」と考えてしまうかもしれません。
しかし、バガヴァッド・ギーターの5章でクリシュナは、実践と知識の一方から得られるものは、他方でも同様に得られると断言しています。
道が違ったとしても、幸福に生きるという目的は同じです。同じゴールを目指しているヨガは、全て正しいとクリシュナは説きます。
どのような争いであっても同じです。それぞれ幸福を得たいという同じ望みを持っていても、自分と違う立場の相手に対しては共感できなくなってしまいます。
相手を陥れて自分の利益を増やしても、結果的に両者が不幸になってしまいます。それならば、安易な方法を選ばず、両者が協力しながら全体のバランスが良い方法を探すのが理想です。
自分の身近な人間関係こそ大切
争いの少ない世界を目指すために、私たち1人1人の力は微力すぎます。しかし、それぞれが自分の周りと親しくするように気を付ければ、少しずつ平和の輪が広がります。
例えば会社の中で責任を押し付けあっているのであれば、社内が上手く機能していないことで会社全体の生産性が悪くなってしまいます。結果、会社の利益が悪ければ、社員全体の不利益になってしまいます。
同じことは企業間でも起こります。国内の企業が足を引っ張りあえば、その国全体の景気が悪くなるかもしれません。
平和というと大きな話に聞こえますが、結局集団は個人の集まりです。個々が気を付けることで、少しずつ全体も幸せに近づくことができます。
まずは自分の家族や友達、仕事で関わる人など、身近なところから平和な関係について考えてみてはいかがでしょうか。
オーム・シャンティのマントラを唱える時、1度目は自分に、2度目は自分の周りの人に、3度目は世界全体にと、自分も周りもみんなが平和であることを祈りましょう。