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カルマ・ヨガ(行為のヨガ)というヨガがあります。自分自身が行う行為を全てヨガとして遂行することによって、日常生活の中から自分自身を高めていくヨガです。
では、どのような行為がヨガ的なのでしょうか。ヨガの経典として知られる『バガヴァッド・ギーター』の教えを見ていきましょう。
サットヴァ・ラジャス・タマス、3種類の行為(カルマ)
カルマ・ヨガ(行為のヨガ)とは、正しい行いを執着なく行うものです。
ヨガの発祥の地インドでは、人々のためになる慈善活動をカルマ・ヨガとして行う人が沢山います。
例えば、街中で中流家庭の人たちが沢山の食事を作って貧しい人たちにふるまう光景に頻繁に出会うことがありますし、牛や犬などの動物に食べ物をあげる人も多いです。
ヨガのアシュラム(修行道場)では、貧しい子供たちの食事を提供するところや、高齢者の介護を行う施設を併設しているところもあります。
このような、自分の私欲ではなく、周りの人のために行う活動はカルマ・ヨガとして行われています。
インドではとてもポピュラーなカルマ・ヨガですが、良い行いをしても行い方を間違ってしまうとヨガの恩恵を受けられなくなってしまいます。
バガヴァッド・ギーターの中では、3種類の行いに分けて説明しています。
幸福に繋がるサットヴァ性の行為(カルマ)
人が果報を期待せず、執着を離れ、愛憎なく定められた行為をなすとき、それは純質的な行為と言われる。(バガヴァッド・ギーター18章23節)
私たちを幸福に導いてくれるサットヴァ(純質)な行為とは、あらゆる執着なく行われる行為です。
特に大切なのは、行いによって行われる見返りを期待しないで行うことです。
日常的に行う私たちの行為は、たいがい何らかの結果を動機として行ってしまいます。
例えば料理をするのは美味しいご飯が食べたいからですし、仕事をするのはお金が欲しいからです。これらの行いは、思った通りの結果が得られれば満足ですし、思い通りに行かなければ不満が溜まるでしょう。
例えばケーキを作って、夕方食べようと思って冷蔵庫で冷やしていたのに、外に出かけて帰宅したら全て家族に食べられてしまっていたら自分が食べられなくて悲しいですね。
結果を求めて行う行為は、常に成功か失敗かという評価に支配されています。
未来の結果のためなら、大切な今という時間を犠牲にしてしまうこともあります。結果への執着はとても強く、人を支配します。
だからこそ、カルマ・ヨガでは果報を求めない純粋な行為を練習します。
貧しい人に食事を提供して、それで自分が何かを得られるわけではありません。
見ず知らずの人に配った食事は、その感想を聞くこともできないかもしれません。しかし、誰かの喜びのために、その食事を作る行為自体を喜びと感じることができれば、心は純粋な喜びだけで満ちてきます。
カルマ・ヨガは身近なところで実行できます。
家族で使うトイレを、毎日ピカピカに磨くなど、誰かの快適さのために行う行為はとても純粋です。
人の心は、どうしても良いことをしたら気が付いて褒めてもらいたくなる時もあります。しかし、そんな果報を求める自分の心に気が付いて、少しずつづつ手放せるようになるといいですね。
欲望を増大させてしまうラジャス(激質)な行為
欲望を求めるものや、我執を抱くものが、非常に苦労した行為をなす時、それは激質な行為と言われる。(バガヴァッド・ギーター18章24節)
サットヴァ(純質)な行為と対照的に、行為の結果を求めて行動するのはラジャス(激質)な行為です。
良い行いをしていても、その結果ばかり求めてしまっていては幸福に繋がりません。
例えば誰かのために美味しいお菓子を焼いたとしても、それによって褒められたいなどの見返りを求めすぎてしまうとよくありません。
例えば、お菓子を用意して友達を自宅に招待した時に、やってきた友達が何も手土産なく来てモヤモヤしてしまったら、それは「自宅に招待したら何かギフトを持ってきてくれるだろう」と期待してしまっていたからですね。
そんな風な欲望を抱いていると思われたくないから「あの人は常識がない」といった、別の言葉を使って陰口を言ってしまうかもしれません。
また、未来のためにと今現在を犠牲にするような行為もラジャス性です。
例えヨガであっても、身体を痛めるくらい厳しい修行は正しくありません。
古代のインドでは、とても厳格な断食を行う修行者も多く、それによって生命を失う場合もありました。
「悟りを得たい」という結果を求めすぎて、より過酷な方法を選択してしまった結果、到達できる前に修行さえできない状況になってしまっては意味がありませんね。
暗闇に導くタマス(暗質)な行為
帰結、損失、加害、能力を無視して迷妄によって企てられた行為は、暗質的な行為と言われる。(バガヴァッド・ギーター18章25節)
最後はタマス(暗質)な行為です。
何が正しくて間違っているかには関心がなく、私利私欲のために行う行為は個人を暗闇に導きます。
タマス的な行為は、目先の収入や利益を原動力とします。
例えば、今この瞬間に快楽を得たいからと贅沢品を買い漁ったり、瞬間的な快楽のためにスイーツやジャンクフード、強いアルコールを口にしたりするのもタマス的な行為です。ギャンブルなどの依存の強いものも含まれます。
本当は行うべき行為を、怠慢さから行わないこともタマス的です。
部屋が散らかってきたけれど、今はダラダラとゲームがしたいからと掃除を放棄したり、自分の仕事を他者に押し付けたりするのもタマス的です。
または、せっかく努力をしても、本来自分が行うべきでないことを行うのもタマス性です。
人の社会には個々の役割があって、全体が上手くいくようになっています。自分の立場にふさわしくない行動も、やはり避けた方がいいとヨガ哲学では説きます。
例えば会社の中で、管理職の人が忙しい事務の人の仕事を手伝ったら「良い人だ」と感謝されるかもしれません。しかし、優しさで部下の仕事を長時間手伝いすぎ、上司の立場でしかできない本当にやるべきことが疎かになってしまったら本末転倒です。
タマス的な行為は私たちの健康と活力を奪うだけではなく、時間や資源を無駄に浪費してしまいます。
サットヴァ性の行為を心がけると得られる幸福
行為をヨガとして遂行するカルマ・ヨガは、日常生活で継続的に気を付けていると難しさを感じることがあります。
頑張って仕事や家事をしていれば、やはり誰かに気が付いて褒めてもらったり、お礼をしたりして欲しいと見返りを求めてしまう時があるでしょう。
しかし、そういった自分の心に向き合うことが大切です。
最初はただめんどうだと思いながら行う行為もあるでしょう。毎日休めない家事などは、本当に退屈に感じてしまうかもしれません。
それでも、嫌々床の拭き掃除を行った後、綺麗になった部屋はとても心地が良いですよね。
その心地よさをしっかりと味わうことがカルマ・ヨガでは大切です。
心の中のサットヴァ性を高めるためには、この瞬間に意識を向けるマインドフルな状態でいることが大切です。アーサナの練習をやり切ったあとの深い呼吸の気持ちよさを、日常で与えられた仕事をやり切った時にも感じられるといいでしょう。
マルチタスクで何かを行いながらだと感じにくくなります。1一ずつの自分の行為を大切に行うことが大切です。