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前回の記事から、ずいぶん時間が過ぎてしまいました。時の流れがいっそう加速しているいま、みなさんと一緒に、さらにヴェーダの学びを深めていきたく、気持ちをあらたに、筆を取っています。
以前、「ひとりのグルにコミットする醍醐味」というコラムを書きました。プルシャ(純粋精神)へと至る学びは師から弟子へと伝承されていくというのがヨガはもちろん、ヴェーダの世界観における基本になっています。日本でも、茶道、華道、武道……など、何かの道を極める分野においては師弟関係というものが欠かせません。
ではなぜ師という導き手が必要なのか、というのは前回のコラムを参照ください。
>>>前回のコラムをチェック
エゴに覆い隠されたプルシャの輝きを取り戻すために……
わたしのクラスでは、ヨガのアーサナや瞑想、アーユルヴェーダの各種浄化法、日々の気づき・学びを記録するジャーナルなどをとおして、ヴェーダが伝える今世のカルマをまっとうすることを体験的に理解してもらうことに重きを置いています。
アーサナも瞑想も、アーユルヴェーダの浄化や養生も、すベては、エゴに覆い隠されてしまったプルシャの輝きを取り戻すためです。
これは何度もお伝えしていることですが、知識やテクニックを磨くことが目的ではありません。本来わたしたちは、誰もが、オリジナルの人生の設計図を携えて地球に生まれてきている、というヴェーダの学びを、わたし自身探求し続けています。
この人生の設計図(自分の本質)を思い出し、そこに沿って生きはじめたとき、人は尽きることのない幸せへと至ることができる、というのがわたしの一番伝えたいことなのです。
この人生の設計図を思い出すことは、すなわちプルシャを輝かせること。つまり、プルシャを覆っているエゴを手放していくことに他なりません。この道を着実に進んでいくには、導き手がいたほうが安全です。
自分と深く向き合う体験は、安全な場所で、信頼できる人とともに
アーサナや瞑想、食事の見直しや断食など、もちろんひとりで行うこともできます。しかし重要なのは、浄化が進んだ後に出てくる、感情や感覚とどう向き合うのか。ここがひとりではなかなか難しいのです。浄化の過程で、深い内観へと意識が向かうと、ときに見たくないトラウマなど、負の記憶が掘り起こされることがあります。あるいは、神秘体験に近い感覚に包まれることもありますが、ここに囚われてしまうと、せっかくの浄化のプロセスが止まってしまうのです。このとき、安心して負の記憶を手放せる、あるいは神秘体験にとらわれず、その先へと淡々と進んでいける“場”というのが非常に大切になります。
グルと呼ばれる存在の大きな役割は、この場を作り、生徒さん一人ひとりに起こる、自分とつながるプロセスを判断せず、見守り、見届けることではないかと思うのです。
一方でこの場は、わたしひとりの力ではなく、生徒さんとの相互作用によってもたらされるものだとも感じています。わたしのクラスでは、授業以外の時間も大切にしているのですが、それは、ささやかなコミュニケーションの時間をとおして、論理や知識だけでは伝えきれない、つながりの深さを感じてほしいから。
そうして、生徒さんとわたし、生徒さん同士が深くつながったとき、一人のプロセスが、他の人のプロセスとリンクしながら、浄化や気づきの波はよりダイナミックになっていきます。それは、わたしたちは誰もが、深い部分ではつながっていることを思い出させてくれる、奇跡の瞬間です。人と人とのつながりの確かな体感こそ、安心できる場作りに欠かせない、重要なエッセンスだと感じています。
バクティで、エゴを超える
この、つながりについて考えていたときに、「バクティ」の教えの深淵さに気づきました。「バクティ」とは、本来神に対する絶対的な信仰・帰依のこと。最高神に絶対的に帰依して親愛をささげ、それによって神の恩寵を受けるという思想は、古くはインド哲学の根幹である『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』にあらわれ、さらにインドの大叙事詩、なかでも『バカヴァッド・ギーター』のクリシュナ=ヴィシュヌ崇拝においいてもっとも強調されています。
信仰・帰依というのは盲信的に何かを信じるのではなく、究極は自分自身に対する絶対的な安堵、信頼ではないかとわたしは考えています。バクティの説く素晴らしさは、便宜的にクリシュナへの帰依としながらも、対象に親愛をささげる行為をとおして、自分とつながることの深さを教えてくれているところにあると思うのです。
献身的に何かに尽くしているとき、エゴの声は小さくなるものです。そうして、エゴを超えたとき、自分にとっての定められた道が見えてくる。その行為に専念することこそ、ギーターが説く、「バクティ」による神の恩寵ではないでしょうか。
行為に対して、見返りを求めたり、結果を期待しているうちは、神は自分から切り離された存在にすぎず、「バクティ」を理解できないかもしれません。そこに気づけないうちは、たとえグルと出会ったとしても、グルを信頼することはできないでしょう。
他者と比較しては、自分は劣っているように感じてしまったり、グルの恩寵を受けるために誰よりも努力しなくてはいけないという迷妄にとらわれたり。あるいは、現実が変わらないことをグルのせいにする、ということもあります。
準備ができた人から、人生の設計図を取り戻し、自分を生き始める
しかし、ヴェーダの学びの場というのは、競争や比較によって成立するところではありません。ましてや、パワーゲームに興じるのは、もってのほかです。
プルシャを輝かせ、自らのカルマをまっとうすることに心が決まった人たちが、ともに魂の旅路へと向かう仲間と、そしてグルとつながることで、自分とつながることが最大の目的なのです。
親愛を込めて、グルと、仲間と接するとき、それは自分自身に愛を注ぐことに他なりません。
これは人から強いられて取る行為ではない、ということも重要なポイントです。本当に必要としている人には、しかるべきタイミングで、自分に目醒める最適な場、仲間、グルとの出会いが自然とやってきます。そのときこそ、自ずと親愛をもって、グルや仲間とつながっていけるのだと思うのです。
グルとの出会いには、ある種の神秘性があるとも言えますが、やはりそれは大きな人生の転機になるからだと感じています。グルはエゴに光を当て、手放す道を示す存在ですから、出会いの鍵を握っているのは、エゴを手放す覚悟があるか否か。でもそれは、怖いものではありません。至福―アーナンダ―への道に方向転換するだけのこと。
この舵を切ることができるのは、他の誰でもない、自分自身なのです。