宇宙と座る女性のシルエットのダブルイメージ

シャンカラの説く不二一元論とは?ヨガ哲学の真髄を探ろう

ヨガ哲学を勉強していて、不二一元論という言葉を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。不二一元論とは、インド中期の哲学者シャンカラの有名な説で、ヨガを含めたあらゆる哲学に現在まで影響を与え続けています。

不二一元論が分かると、ヨガの世界観への理解がグッと深まります。少し難しいですが、勉強してみましょう。

不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)とはなにか?

手のひらの宇宙

不二一元論は、ヴェーダーンタ学派の有名な哲学者シャンカラが説いた学説です。

ウパニシャッド文献を中心とするヴェーダーンタ哲学では、宇宙の真実はたった1つであるという梵我一如の考えを説きますが、シャンカラはヴェーダーンタの説をさらに強調して「真実は2つもない。たった1つなのだ。」と説きます。

ヴェーダーンタ学派と同様に、インドの正統派として知られるサーンキャ哲学では、「純性なものから、不純性のものが生まれるわけがない。だから、世界には純正な真実(プルシャ)と、不純性なもの(プラクリティから生まれる物質)があるのだ」という二元論を説きますが、哲学者シャンカラは著書の中で二元論に反発し、真実は1つのブラフマンのみだと主張しました。それが不二一元論と呼ばれる教えです。

不二一元論を説いたシャンカラとは

シャンカラは、700 〜750年頃のヴェーダーンタ学派の哲学者です。南インド、ケーララ州のバラモン(司祭階級)の家に生まれました。3歳で父親を亡くしたシャンカラは、5歳で入門し、7歳の時には全てのヴェーダ聖典の勉強を終えて一切知を得ました。その後、インド中を遊行しながらヴェーダーンタ哲学を説き、32歳の時にヒマラヤの聖地ケーダーラナートで短い生涯を終えます。

シャンカラ作と言われる書物は300以上存在しますが、そのほとんどが初代シャンカラ作ではないと言われています。シャンカラが記した文献の数は不明で、謎が多い聖者です。

シャンカラは、聖典への註解を数多く残しており、有名なものだと『ブラフマ・スートラ注解』、ヨガでお馴染みの『バガヴァッド・ギーター注解』『ヨーガ・スートラ注解』などがあります。

アートマンとブラフマンは一体

台の上の茶色い壺

それでは、シャンカラの説いた不二一元論を具体的にみていきましょう。

不二一元論を理解するためには、アートマン(個我)とブラフマン(宇宙の根本原理)について知る必要があります。

  • アートマン:自分の内側に内在する本質。意識。物質的な体や感情、思考ではなく、さらに内側に宿る意識自体。認識のみを行い、あらゆる行為を生み出さない。
  • ブラフマン:宇宙全体の根本原理。永遠に不変、完全なる、解脱した状態のもの。

不二一元論では、自分自身の本質であるアートマンと宇宙全体の根本原理であるブラフマンは同一であり、たった1つのブラフマンのみが存在すると主張します。

シャンカラは、度々、壺の中の虚空に例えます。空っぽの壺が置いてあった時に、壺の中の虚空と壺の外の虚空にはどのような差があるのでしょうか。どちらも同様に虚空の存在でありながらも、私たちは「壺の中は空っぽ」だと捉え、器の内側は別物だと認識します。この誤った認識こそが、シャンカラが説く無明(アヴィディヤー)です。本当は、内側の空気は外側の空気と繋がっていて、同様の特性を持っています。

つまり、私たちが「私個人」と思っている自分の本質が、実は、「個」でなく全体と繋がっているのだと知ることが梵我一如の悟りなのです。

1つのブラフマンから様々なものが生まれる説明

世界がたった1つの真実のみであるのなら、真実なものから不純性のものが生まれるのはおかしいという反論があります。しかしそれは、認識の誤りでしかないとシャンカラは考えます。

よく使われる土と壺の例えがあります。私たちは目の前の壺を見た時、それを壺だと認識し、土ではないと考えます。しかし、壺という結果は、土の状態や土から作った粘土の状態の時にすでに含まれている可能性です。本質を見れば、土と壺は同じ性質を持ったものであり、その瞬間の形の違いでしかありません。原因である土の中に、すでに結果(壺)が含まれていると考える説を因中有果論と呼びます。

彫刻家が木や大理石の塊を見た時に、その中にすでに仏や女性の姿が見えていて不要な部分を取り除くだけだ、と話すことがあります。結果はすでに、原因の内側に含まれているのですね。

さて、壺という結果はその瞬間の変容物または名称でしかなく、本質は土でしかないとシャンカラは考えます。その壺が割れて土に戻り、その土からコップや花瓶が生まれるかもしれません。壺、コップ、花瓶、平皿など、全て違う名称が与えられたとしても、それは名前でしかなく本質は土でしかありません。壺やコップといった特定の変容した状態を見たとき、それぞれの名称を与えられた物質には限られた可能性しかありません。壺でお茶を飲むことはできませんし、平皿で花を飾ることはできません。しかし、本質である土を見ると、様々なものが生まれる可能性を含んでいます。

私たちが自分自身を信じられない時には、この瞬間の一時的な姿のみを認識しています。それこそが誤りであり、「これが私」という誤った認識をなくすだけで、私たちは完全な存在なのだと気づくことができます。

全ての過ちの原因、無明(アヴィディヤー)

『ヨガ・スートラ』では、全ての苦しみは無明・無知(アヴィディヤー)だと説きますが、この無明はシャンカラの哲学でもとても重要な概念です。

無知とは無常において常を、不浄において常を、苦において楽を、我でないものにおいて我を認識することである。

『ヨーガ・スートラ』2章5節

『ヨガ・スートラ』では、無明こそがあらゆる煩悩(クレーシャ)の田地であると説きます。人々が人生で背負う苦しみは、間違った認識から生まれます。落ちている縄を暗闇で見た時に、蛇だと勘違いして恐怖を感じるようなものです。本来は存在しない苦しみを想像して、不安になり絶望します。

シャンカラは、無明とは、自分(アートマン)でないものをアートマンだと誤認することだと説きます。例えば、身体は生まれてから変化し続け、形を変えて、いつの日か寿命を迎えます。他の例で言えば、お気に入りのコップが割れて悲しむようなことです。コップが割れても、私が傷つけられたわけではありませんし、本質としての土は壊されることがありません。

解脱とは無明を破壊して明知を得ること

人の手と白い鳩

間違った認識が苦悩の原因であれば、正しい知識を得ることこそが苦しみからの解放(モークシャ)に繋がります。ヴェーダーンタ哲学では、真実の知識を得ることこそが最も重要だと考えます。そして、苦しみを生み出す誤った認識を手放すためにヨガを行います。ヨガでは感覚器官を制御し、心の働きを止めていきます。それによって、変容し続ける物質的な対象への意識を手放し、内側に宿る本質へと意識を向けていくことができます。「これが私」という間違った認識やエゴは、物質的な概念でのみ説明されます。ヨガで心の働きを制御することでエゴを手放すことができ、間違った認識である無明も消し去ることができます。

哲学的な考えを取り入れてみよう

今回は、インドの偉大な哲学者シャンカラが説く不二一元論を紹介しました。

哲学を文章で勉強すると、少し難しいですね。しかし、インド哲学は様々な例え話でイメージすることができるので、実感しやすい身近な教えにも感じられます。 瞑想する時に、勉強したことを日常の中に置き換えてイメージしてみましょう。少しずつ、ヨガの真髄が見えてくるかもしれません。

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