みなさん、こんにちは。丘紫真璃です。
今回は、ファンタジーの先駆としてイギリスで非常に有名なケネス・グレーアムの『たのしい川べ』を取り上げたいと思います。
日本でも戦前から翻訳されていた物語なので、一度は目にしたことがあるという方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
お金持ちでワガママで欲深いヒキガエルが、自動車を盗み出す冒険が印象に残っている方もいらっしゃるでしょう。あるいは、ネズミがこよなく愛する川べの暮らしが心に残っている方もいらっしゃるかもしれません。ほかにも、ネズミとモグラが吹雪の中で凍え死にそうになったあげく、アナグマの温かい家を発見して命拾いをするという、ハラハラする場面を覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
美しい場面やハラハラする場面、ユーモラスな場面などの様々な顔を持つのが『たのしい川べ』の魅力です。
そんな『たのしい川べ』とヨガのつながりについて、みなさんと考えていきたいと思います。
イギリスの自然をこよなく愛したグレーアム
作者のケネス・グレーアムは、1859年生まれ。4歳の時に最愛の母が亡くなり、田舎に住む祖母の家に引き取られます。祖母は子どもにかまわない人だったので、グレーアムはとても孤独だったそうです。けれども、その代わりに、祖母の家を取り囲む野原や川べ、モグラやネズミ、カワウソといった小さな動物達と友達になりました。
後にグレーアムは、この時期について次のように語っています。
4歳から7歳までの間は、自分が全感覚をあげて、外の美しさを吸収した時だ
ケネス・グレーアム. 訳 石井桃子. 1963. 『たのしい川べ ―ヒキガエルの冒険』. 第35版. 岩波書店. p, 351
グレーアムは、大人になって銀行員になってからも田園歩きをこよなく愛し、休日には田舎に遠出して、自然の中をそぞろ歩きしたといいます。そしてまた、アルフレッド・テニスン、ロバート・ブラウニング、ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリスといった有名な文学者が出入りするレストランで食事をするうちに彼らと友達になり、彼らの影響を受けて随筆を書いたりもしました。『たのしい川べ』が生まれたのは、グレーアムが結婚をした後のことです。4歳の一人息子であるアラステアを寝かしつけるために、グレーアムがモグラやネズミの出てくるお話をしたことがきっかけでした。その物語をアラステアは非常に気に入って、毎晩、モグラやネズミのお話をせがむようになります。お話はその後3年も続き、ヒキガエルやアナグマも出てくる豊かな物語となりました。
親子で楽しんでいたこの物語がまとめられたのが、『たのしい川べ』です。アメリカの大統領だったセオドア・ローズベルト一家もお気に入りだったという『たのしい川べ』は、初版後も絶えることなく増刷され、イギリスの児童文学史上でファンタジーの先駆としての位置を占めるまでになりました。
春の大そうじをほっぽりだして
季節は、春。小さなモグラが、地下にある自分の小さな家の大そうじをしている場面から、物語は始まります。大そうじをしているうちにすっかり疲れてしまったモグラは、大そうじを途中でほっぽり出して外に遊びに出かけてしまいます。そこで、モグラは初めて川を見つけました。
生まれてから、まだ一度も、川を……このつやつやと光りながら、まがりくねり、もりもりとふとった川という生き物を見たことがなかったのです。川はおいかけたり、くすくす笑ったり、ゴブリ、音をたてて、なにかをつかむかとおもえば、声高く笑ってそれを手ばなし、またすぐほかのあそび相手にとびかかっていったりしました。すると、相手のほうでも、川の手をすりぬけてにげだしておきながら、またまたつかまったりするのです。川全体が、動いて、ふるえて、きらめき、光り、かがやき、ざわめき、うずまき、ささやき、あわだっていました。
ケネス・グレーアム. 訳 石井桃子. 1963. 『たのしい川べ ―ヒキガエルの冒険』. 第35版. 岩波書店. p, 11
モグラはすっかり魔法をかけられたようになって、川の流れに見入ります。そこで、1匹の川ネズミに出会いました。ネズミは、ボートでピクニックに出かけるところだったといい、一緒にどうかとモグラを誘います。ピクニックですっかり友達になったモグラとネズミは、ネズミの家で一緒に暮らすことになります。
それから、モグラとネズミの川べでの生活や森のアナグマと出会う話、ワガママなヒキガエルが自動車を盗む冒険物語などが、次から次へと語られていくのです。
ところで今回、この物語を読み返して発見したことがあります。子どもの頃に『たのしい川べ』を読んだ時には、ヒキガエルが自動車を盗むスリルたっぷりの冒険がとても面白かったのですが、大人になって読み返したとき、モグラやネズミが暮らす川べの情景がこんなにも美しかったのかと驚いてしまったのです。
そこで、ここからはこの美しい川べの情景について、少し詳しくお話ししてみたいと思います。
神さまが見える目
友人のカワウソの坊やが行方不明になってしまったので、モグラとネズミがボートで探しにいくシーンがあります。日が暮れる中、モグラとネズミはボートをこいでカワウソの坊やを探しにいくのですが、そこではこんな情景が描かれています。
地平線は、夜空にもくっきり浮かびあがっていましたが、ただ一か所だけが、だんだん明かるくなってくる銀色の光の下で、ことさらに黒ぐろと見えていました。そして、とうとう、待ちかまえている地のはてに、ゆっくり、荘厳な月が、顔をだしました。月は、やがて、すっかり地平線をはなれると、港はなれた船のように空にのぼっていきました。そして、ふたりの前には、ふたたび大地が…ひろびろとした牧場や、しずかな野菜畑が見えはじめ、川は、岸から岸までやわらかな色に包まれてひろがっていたのでした。さっきまでの、あの神秘さや、おそろしさは、すっかり消えて、まるで昼間のような明るさですが、そのくせ、昼間の景色とは、おどろくほどのちがいようです。それは、まるで、ネズミたちのおなじみの遊び場所が、そっとかげにかくれて、いままでのきものを脱ぎ捨てると、新しい衣装に着がえて大いそぎでかけもどり、こんなに変わっても、わかってくれるかしらと、にっこりしながら、待っていたとでもいうようでした。
ケネス・グレーアム. 訳 石井桃子. 1963. 『たのしい川べ ―ヒキガエルの冒険』. 第35版. 岩波書店. p, 176
日が沈み、そして月が上っていく夜の川べの情景が、ありありと目に浮かんできますね。
さて、いつもと違う美しい夜の川をボートでこいでいるうちに、ネズミとモグラは、不思議に美しい笛の音を聞きつけます。笛の音に惹きつけられて進んでいくと、ついに笛を吹いていた主を見つけました。それは、動物の友であり救い手でもあるパンの神だったのです。そして、パンの神のひざの中で、探していたカワウソの坊やがすやすやと眠っていたのでした。
このくだりは長い詩のように美しく、夜の川べの美しさや月夜の川に響くパンの神の不思議に美しい笛の音が心をとらえて離しません。
グレーアムは『たのしい川べ』で有名になった後、物語をもっと書かないかとよく質問されていたそうですが、そのたびにこう答えていたそうです。
外はあまりにも美しく、机にすわっていられない
ケネス・グレーアム. 訳 石井桃子. 1963. 『たのしい川べ ―ヒキガエルの冒険』. 第35版. 岩波書店. p, 358
物語を書くのも惜しいほど、寸暇を惜しんで外歩きを楽しんでいたのでしょう。きっと、夜の野原でパンの神に出会ったことだってあるのかもしれません。だからこそ、あの夜の川べの情景をあのように美しく書くことができたのだと思います。
サントーシャに満ちた物語
パンの神が見守る美しい川べで、モグラやネズミは、心豊かに暮らしています。
ネズミは、川での暮らしについてこのように語っています。
川は、ぼくにとっては、兄であり、姉であり、おばさんであり、友だちでもあるんだ。それに、たべものであり、のみものであり、(そして、もちろん)洗濯場でもあるしね。つまり、川は、ぼくの世界なんだ。そして、ぼくは、もうほかには、なんにもいらないなあ。川にないようなものなら、ぼくには必要ないし、川の知らないものなんて、ぼくたち知ってたって、しょうがないんだ。
ケネス・グレーアム. 訳 石井桃子. 1963. 『たのしい川べ ―ヒキガエルの冒険』. 第35版. 岩波書店. p, 19
この言葉を読んだ時、私は、ヨガでいうサントーシャという言葉を思い出しました。サントーシャとは、「足るを知る」という意味だといわれますが、ネズミのこの言葉こそが、サントーシャそのものだと私は思いました。モグラやネズミの川べでの暮らしは、まさしくサントーシャにあふれていて、読んでいると平穏な美しさで心が満ち足りてくるのがわかります。
この本の中には、春や夏の明るい川べの様子や冬ごもりの支度が始まる秋のちょっと寂しい川べ、巣穴にこもって温かい暖炉にあたる冬ごもりの楽しさなどがいっぱいいっぱい詰まっています。
グレーアム自身、アメリカの大統領だったセオドア・ローズベルトへの手紙の中で、この本についてこう語っているそうです。
(これは)生きること、日光、流れる水、森、ほこりっぽい道、冬の炉ばた……の本
リリアン・H・スミス. 訳 石井桃子・瀬田貞二・渡辺茂男. 2016. 『児童文学論』 .第2版. 岩波書店. p, 323
私達は、毎日、空気を吸い、光を浴び、空を見上げ、風を感じて生きています。そよぐ緑の葉を見つめ、流れていく川音を聞き、小鳥の鳴き声に耳をすませることができます。
この地球は、神様からの贈り物である美しい自然で満ち満ちているということを、グレーアムは誰よりも体感している人であったのだと思います。
グレーアムは、仕事や雑用に追われて必死で生きている私達に「ちょっと外を見てごらんよ。そよ風を感じてごらんよ」という思いを、この本の中にありったけ詰め込んで、私達に届けてくれました。
ヨガでいうサントーシャということ。今持っているものだけで、もう満ち足りて満足するということ。それは、今この地球で生きている奇跡を実感するということとつながっているのではないかと、私はそんなふうに思います。
名作と呼ばれる児童文学は、子どもが楽しめることはもちろん、大人もまた違った視点で楽しむことができます。『たのしい川べ』はまさしく、お子様と一緒にも楽しめますし、大人の人が読んでも存分に楽しむことができる本です。
みなさま、ぜひ『たのしい川べ』を読んでみて下さい。きっと、イギリスの美しい野原とそこで暮らすモグラやネズミ、ヒキガエルやアナグマに出会える楽しいひとときを過ごせることと思います。