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みなさんは、カルマ・ヨガ(行為のヨガ)の実践をされていますでしょうか。
カルマ・ヨガは、報酬や見返りを求めない奉仕的な行為です。ヨガ教室の中には、カルマ・ヨガとして、生徒みんなで掃除などを行う場所があるかもしれません。
先日、イタリアで行われたインド音楽のリトリートに参加しました。恵まれた環境で音楽を教わるリトリートでは、本来、生徒はお客様の立場なのかもしれません。しかし、お金を払って受け取るサービスだけでなく、カルマ・ヨガを行うことで得られるものが大きいと感じました。
『バガヴァッド・ギーター』に書かれたカルマ・ヨガとは
インドのヨガの学校では、カルマ・ヨガとして奉仕活動を行うことがよくあります。また、大きな学校では、そこで生活をしている人だけでなく地域の人にも食事を提供したり、医療や介護施設を持っていたりするところもあります。
特に、アシュラムと呼ばれる住み込みの学校の場合、生徒は次のような様々な仕事を与えられます。
- 道場の掃除
- 食事を作る
- 作られた食事の配膳
- 農作物を育てる
- 牛の世話
- ヨガの指導など…
これらの行為は、誰かに褒められたり賃金を得るための行いではありません。「自分のため」というエゴを捨てるためのヨガとして行われています。
あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。
訳 上村勝彦. 1992. 『バガヴァッド・ギーター』9章27節. 岩波文庫. P,84
エゴを手放して、自分に与えられた仕事を淡々と遂行することができる人は、幸福を受け取りやすいと考えられています。
日本のリトリートなどでも、みんなで配膳をしたり掃除をしたりと助け合って生活をすることが多いと思います。このように、生活を共有することは一体感をとても感じますね。
知識や技術を学ぶだけではないインド流の教育
私が支持しているインド音楽の先生が、イタリアで初めてリトリートを行うことになり、同行しました。会場は、ミラノ郊外にある築500年の古いお城です。女性主人がヨガや仏教に所縁が深く、現在では、ヨガやダンス、音楽教室や芸術イベントに大広間を開放しています。
生徒たちは、高い参加費を支払って参加します。しかし、初日に主催者から「食事を食べ終わったら、自分たちで片づけをしてね。共有スペースは、常に清潔に保つように」と、インドの学校で行われているような指示が入りました。
インドの学校では、生徒はお客様ではありません。学校は、生活の仕方や人との助け合い方などの人生に必要なあらゆる知識を学べる場所です。共同生活を行うと、その人となりを強く感じます。毎日大量の食器を率先して洗ってくれる人、二日目になると忘れてしまう人、ゴミの分別が得意な人も苦手な人もいます。人が何かをしていることに気が付く人もいれば、言われるまで気が付けない人もいます。
私がインドでの普段のクラスで先生にしているお世話を見て、翌日から何も言わずに代わりにやってくれる人もいました。インドでも、生徒たちは先輩たちが行っていることを見ながら、音楽家としての振る舞いや生活の仕方を学びます。言葉で言わなくても、当然のようにやってくれる教養の高さに驚きました。
カルマ・ヨガで見える人柄が音楽や本業に影響する
リトリートは音楽を学びにくる場所であり、奉仕活動はついでのお手伝いです。しかし、雑用をこなしている時に見える人柄で、その人の音楽への向き合い方が見えてきます。
言われた時だけ気が付いてやる人は、やはり練習も言われたことだけになりがちです。自分で使ったものだけはしっかりと片づけてくれる人は、自分の音楽に向き合うためにずっと質問をします。優しく協力的な女性は、音楽に対しても優しく正面から向き合います。
音楽以外の時間に周囲の状況に意識が行き渡っているかどうかは、音楽にも大きな影響を与えます。やはり、一番細部まで観察しているのは先生で、私がしていることが気に入らなければすぐに文句を言い、一人で目立たないように動きまわっていれば「そこまでしなくていい」と止めに来てくれます。先生は、普段は周囲に気を使わせないために、できるだけ人に注意はしません。しかし、動かない人がいると気が付いたときには、率先して自分の食器を洗って「自分も洗った」と笑いを取りながらアピールをします。すると、周りも自分の食器を片づけ始めます。周囲への鋭い観察力と周りを動かす能力は、共演者のいる音楽には必要不可欠です。自分が経験したこと全てを表現するのが音楽だと話す先生だからこそ、音楽以外の時間も人を深く知ろうとします。
周囲で起きたことに対して、自分は何を感じてどうしたいと思うのか。それを見た周囲の人は、何を思うのだろうか。自分はどう思われたいのか。
たった一つの行動をする時に、さまざまな思考が生まれます。それはこの瞬間に意識が向いている証拠です。今この瞬間を生きることができれば、それが最も大切な学びに繋がります。
じっくりと考えながら、先生と生徒が一緒に学ぶカルマ・ヨガ
日常のあらゆる行為を、カルマ・ヨガとして行ってみましょう。
また、その時に自分が何を感じたのかを観察することも大切です。沢山の良いことをすれば、沢山の徳が積めるわけではありません。その時々に必要な行いを考えながら行いましょう。
例として、「ヨガを教える」というカルマ・ヨガについて考えてみます。
生徒の動きが間違っている時に、さっとアジャストしてあげるのも一つの方法でしょう。それによって、感謝されるかもしれません。しかし、あえて口には出さず、自分で気が付けるように誘導する方法を考えた方が、生徒にとっては大きな学びになることもあります。その日は、できないかもしれません。しかし、3回目にやっと伝われば、それだけ時間をかけた方が理解が深まることも多いのです。
自分が、生徒の立場であったとしても同じです。先生が、どのような想いで指導をしているのか観察してみましょう。優しいと感じる時には、本当に向き合って優しくしている時と、単に生徒に関心がなくて甘い言葉をかけているだけの場合があります。逆に厳しい時こそ、生徒に本当に成長して欲しくて意識を向けてくれているのかもしれません。
ヨガの技術を教わることだけがヨガではなく、先生の人となりから学べることがとても多いのがヨガです。
この瞬間を味わうことが幸せな未来に繋がる
ヨガが好き、音楽が好き、スポーツが好きなど、自分が没頭できるものがあると、つい好きなものにばかりに意識が向いてしまいます。古典音楽であれば、1日10時間以上と、とにかく長い時間練習をすれば立派だと考える人も多いです。
しかし、私の先生はその考えには疑問を呈しています。何時間も技術的な練習をしていても、そこには表現が宿りません。なぜなら、音楽には常に様々な感情や味わいが必要であり、それは人生で五感を使って学ぶべきものだからです。恋愛感情、怒りの感情、悲しみや妬み、このような複雑な感情でさえ、自分の表現を作るためのものだと客観的に観察して表現した時に、初めて人の心を動かす音楽が生まれます。
ヨガの指導に置き換えて考えてみると、どうでしょうか。教典の言葉の説明や解剖学が完璧なことで優秀な先生と呼べるなら、AI(人工知能)の方が優れているかもしれません。しかし、自分が人生で経験した様々な思いがあるからこそ、本当の意味で生徒のみなさんを理解して指導することができます。
そのためには、自分が食事を作っている時、食べる時、片づける時、人と話す時、全てをヨガの学びだと実感することが大切です。どんな経験であっても、自分を成長させてくれるはずです。