記事の項目 [閉じる]
今まで信じていた常識や価値観が急に失われてしまうような時代の中で、何を信じたら良いのか分からなくなってしまう人も多いと思います。そんな時、ヨガ哲学ではどのように考えたら良いのでしょうか。
ヨガには無所有という考え方があります。これは、執着を捨てるための教えです。物質的な所有物を手放すと思考的なしがらみも弱まり、楽に感じられるかもしれません。
変化の時代に必要なアパリグラハ「無所有」

私たちが日々考えていることは、自分の人生で積み上げてきた知識と価値観で作られています。ニュースを見た時に、誰が悪い、こうあるべきと考えるのも、全て自分が過去に学んだことをもとに評価しています。
ところが、変化の早い時代には、自分が知っている価値観が通用しないことが多数出てきます。
今までは許されていたことが社会的に絶対悪になったり、自分が信じてきた人が変わってしまって信じられなくなってしまうこともあるでしょう。
そんな時こそ、アパリグラハ(無所有)の考えを活かしたいものです。
所有することと手放すことのバランスを考える
価値観について考える前に、まずはアパリグラハ(無所有)について考えてみましょう。
アパリグラハ(無所有)は、言葉の通り何も持たずに、最低限の生活を行うことではありません。私たち人間は、生活をするために必ず物質的なものが必要となります。
例えば、日々健康的な食事をするためには、適切なキッチン道具がやはり必要となります。ただ栄養を満たすためだけであれば、一つの鍋に全ての食材を入れて火にかけるだけで調理はできるかもしれません。しかし、食材ごとに美味しく食べるためには、鍋だけでなくフライパンも必要ですし、野菜を洗うボウルやゴミを分別するためのゴミ箱も複数必要となります。
自宅にものを所有しないことを重要視しすぎた人は、完全栄養食のタブレットのみを食べたり、毎日外食したりすればキッチンは綺麗な状態に保つことができますが、そのような生活は健康的だとは考えにくいですね。
私たちは必ずものを所有します。それ自体を拒否する必要はありませんが、自分の所有物に対しての執着は手放すべきものです。
みなさんにも、思い当たることがあるかもしれません。例えば、自分が若い時に買った高級な衣類が捨てられなかったり、何年も読んでいない本の山があったり、いつの間にか化粧品のサンプルが溜まりすぎていることもあるかもしれません。
不要なもの、使わなくなったもの、傷んだものが自宅に溜まっている状態は、場所のエネルギーを下げてしまいます。
自分がに必要なものと、手放すべきものを見極めたいですね。
「私のもの」ではなく、一時的なものだと理解する
ヨガでは、「私のもの」という所有意識を手放します。「私が得た」「私が所有する」という概念はエゴによるもので、『バガヴァッド・ギーター』の中では阿修羅的な人の言葉だと説いています。
私は今日これを得た。私はこの願望を達成するだろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。(16章13節)
彼らは無知に迷わされてこのように言う。(16章15節)
訳 上村勝彦. 2018. 『バガヴァッド・ギーター』第34 刷. 岩波書店. p, 124
全てのものは、この瞬間たまたまこの場所にあり、常に変化して動き続ける無常なものです。誰かの所有物という考えを手放していきましょう。
自分の価値観でジャッジすることを手放そう

所有し続けられないものは、物質だけではありません。
私たちが抱いている価値観や道徳、倫理観であっても、それは永遠に保持することができません。世の中には、同じ志のまま一生を全うできる人もいますが、現代のように時代の変化が早いと、信じていた価値観が壊されてしまうこともあります。
自分が子供の時に親や先生から学んだ常識、マスメディアを通して学んだ常識が、気がついたら時代遅れになってしまうこともあります。10年以上の時間をかけて緩やかに変化していれば良いのですが、昨今は数年間でガラッと変わってしまうことがあります。
そんな時、どうしたら良いのでしょうか。
良い悪いというジャッジを手放してみる
世界の変化に対してどれだけ文句を言ったとしても、個人の力では変えられないことは多々あります。人はどれだけよく生きようとしても、世界にはサットヴァ(純粋)、ラジャス(激しさ)、タマス(鈍さ、暗さ)の3つの性質が存在しているため、暗い時代もあれば激しく変化する時代も必ずあります。
自分の人生の中でも、不思議と急に全ての歯車が噛み合って上手くいくタイミングもあれば、どれだけ努力をしても何も得られない時もあります。全てが上手くいきすぎるとしっぺ返しがあるのではと萎縮してしまったり、努力の成果が得られないと諦めたくなることもあるでしょう。
しかし、どんな時であっても受け入れるのがヨガ的な生き方です。
ヨガでは「委ねる」という言葉を使います。それこそ、「ありのままの状態を受け入れること」です。
ヨガの練習で「委ねる」を育てる

「委ねる」と言われても、ピンときにくいかもしれません。しかし、ヨガの練習をしていると、自然と「委ねる」という感覚が養われていきます。
アーサナ(ポーズ)の練習を思い浮かべてください。ヨガを始めたばかりの時には、自分が何ができて、何ができないかを自分で判断しようとします。
難しいポーズにチャレンジする時に、「これくらい、私はできるはずだ」「私よりずっと歳上の○○さんができているのだから、私もできるはず!」と思って練習をすると、思い通りに自分の体が動かなくてショックを受けたり、なんとか成功しようと無理をして怪我を招いたりすることもあります。
逆に、「私には無理」と決めつけてしまうことによって、自分の可能性が制限されてしまうこともあります。どうせ出来ないからと集中力が切れてしまったり、恐怖心から体が緊張して本当にできなくなってしまうことがあります。
ヨガでは、今の「あるがまま」を受け入れます。上手くできてもできなくても、自分に向き合って、自分を感じて、受け入れることが本当の喜びです。自分でジャッジせず、受け入れることが「委ねる」につながります。
委ねることと、何も行動しないことの違い
「ありのままを受け入れる」ということは、今の自分が素晴らしいから何も努力しなくて良いこととは違います。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果ではない。行為の結果を動機としてはいけない。(2章47節)
訳 上村勝彦. 2018. 『バガヴァッド・ギーター』第34 刷. 岩波書店. p, 124
どんな時であっても、私たちは前を向いて進み続けなくてはいけません。今、与えられた環境で一生懸命生きていくのが人生です。ただし、自分の頑張りの結果が、思い通りである必要はありません。「こうあるべき」という価値観はアパリグラハ(無所有)で手放しながらも、常に最善を見つけていくのがヨガ的な道です。
変化しても見失ってはいけない本質
アパリグラハ(無所有)で価値観や主張は手放しても、手放してはいけないものがあります。それは、私たちの人生のサンカルパ(誓い)です。ヨガのサンカルパは、自分自身が人生で最も大切にしたいものです。人によっては、「愛」かもしれません。または「幸せを感じること」「心の平和」「自分と向き合うこと」かもしれません。
自分の内側に、自分の芯になるものを抱き続けましょう。
本質と繋がっているとき、外側の世界がどれだけ変化しても自分軸を見失うことはありません。
自分が手放すもの、守るべきもの、その見極めをすることで、どんな時でも惑わされない自分でありたいですね。