ヨガ的な生活しか知らなかった子ども時代
私と上の兄は、いつも父と一緒にそういうことをやっていた。だから、“That’s life”と思っていたんですよ。ヨガ的な生活じゃない生活があるなんて、考えたこともなかった。ずっとそういう生活だったんです。
私は勉強ができたから、飛び級して大学は18歳で卒業しました。大学の時はテコンドーをやっていて3段を持っているけど、大きなケガをして辞めました。それからはヨガだけです。
船での生活で「生き方」について考えた
エンジニアは給料がすごくいいから、船で同じ仕事をしてるエンジニアたちはみんな遊びまくっていた。酒を飲んだりギャンブルしたり、女の人を買ったり……。
でも、私は一人でそれまでと同じ生活をしていたんです。父がしていたように、瞑想したりヨガで身体を動かしたり本を読んだり、そういう生活。
休みの間は自分の家でヨガ的な生活ができるけど、船に戻ると周りはみんな遊びまくっている。すごくむなしく、辛い気持ちでした。「この人たちの生き方と自分の生き方、どっちが正しいの? どっちがいいの?」と悩みましたね。
答えが知りたくて、休みをつかってヨガの修行に出ました。リシケシのシヴァナンダ・アシュラムでの3ヵ月のティーチャートレーニング(講師養成講座)ですね。1990年のことです。
カーストのトップから外れ、ヨギとして生きる道へ
卒業のテストのときには、トップの評価をもらいました。それで、アシュラムとアカデミーのトップだったスワミ・クリシュナ・ナンダに「ここに残ったらどうか」と言われたんです。彼は私の師匠で、クリシュナの名前は彼からもらったんですよ。
アシュラムに残るかどうか、迷いました。エンジニアの仕事はお金がたくさんもらえる。その頃で月に60万円くらいで、休みの間も給料がもらえたから。
答えは「マイ・ライフが大事」。
エンジニアになるのは大変だったし勉強するためにお金もたくさんかかったけど、私はスワミ・クリシュナ・ナンダの近くにいたかった。だからエンジニアの資格証明書も破ってガンジス河に流しました。
私はカーストのトップから外れて、ただの人になりました。そこからヨギとしての人生が始まったんです。
アシュラムの病院で「生死は宇宙が決めること」と悟る
私は最初の3年くらい、印刷工場のエンジニアとして働きました。牛の牧場でマネージメントの仕事もした。それから、ハンセン病、HIV、がんのリハビリ施設で働きました。それまでの仕事と全然ちがうし、大変でしたよ。その後、病院でも働きました。
全部、リシケシでアシュラムがやっている施設とか病院です。貧しい人が来たら、タダで診察する。医者も無償で働きます。
病院では医者のアシスタントもするし、死んだ人を運んだり燃やしたりもします。火葬場で、全部燃えるまで一人で見守っていたりすることはしょっちゅうあった。
死んでいく人は、本当にたくさん見ました。私の膝の上で死んだ人も何人もいる。
それで、死ぬことが怖くなくなったんです。人が死ぬことは最初から決まっているでしょ。それが”いつか”というのは、宇宙が決めてる。さみしい気持ちはあるけど、怖いことじゃない。そう悟りました。
それから、ヨガがさらに深まったように思います。