マインドを鎮めるのがヨガの目的
ヨガのクラスでのインストラクターからの声掛けで「頑張りすぎずに」という言葉を聞く機会もあるかもしれません。社会的にも人生の中でも「ギリギリまで頑張っている人が多い」ということを反映していると感じる一コマです。
ヨガ哲学の中に「ヴァイラーギャ(離欲)」という言葉があります。欲や執着を手放す、という意味になります。そこで思い出したいのが、ヨガの目的はマインドをコントロールできるようになること。マインドは「心」や「精神」とも置き換えることができますが、不安定になったり、移り変わったり、とっても動き易いものであると言えます。マインドの一部である欲望や執着から離れ、コントロールするのは難しいことです。
けれど、コントロールが難しいといって欲望や執着を野放しにしていたら、マインドが暴走し、すべてのものを欲しだします。何を欲するかは人によって異なるでしょう。何か個体の物かもしれませんし、ある一定の人間関係かもしれません。または自分自身とは別の誰かになっている姿かもしれません。
アサナの練習が頑張りすぎている自分を手放すきっかけになる
欲望と執着はとても大きなエネルギーであり、この世の中に溢れかえっています。現代社会に暮らす多くの人々が、そうした欲を追い求めることに虚しさを感じながらも、それをやめることが出来ずにいます。
欲を手放す。その機会としてアサナの練習中に「頑張りすぎずに」という言葉を投げかけてくれているのかもしれません。アサナは身体を鍛錬することと同時に、マインドに振り回されている自分を一度リセットする、そして頑張りすぎている自分を手放すために活用できます。
一方で人間は、楽な方へと意識が向きがちな性質もあります。欲望や執着からなかなか離れられずにいるのも、その方が楽だからとも言えるでしょう。だからこそアサナの修練「アビヤーサ(修習)」が必要になります。
ヴァイラーギャ(離欲)とアビヤーサ(修習)
どんなことでも構いません。人が何かを成し遂げよう、始めようとする時は、何らかの努力をしなければ何も進まず始まりもしません。実際、何かを始めるエネルギーは膨大なものです。
ここでヴァイラーギャ(離欲)とアビヤーサ(修習)を「鳥の飛び立ち」に例えて考えてみましょう。
飛び立つためには努力が必要です。飛び立ち、高度を得るまでは努力し(アビヤーサ)、そしてそこから身をゆだねて(ヴァイラーギャ)風を切る。
しかし、飛び立つことが容易ではない人もいるでしょう。アビヤーサの「アビ」は繰り返すという意味。何かをチャレンジする時、何度も何度も失敗しても、練習を繰り返すことでできるようになることも多いものです。
どんな鳥も、いきなり飛べるわけではありません。雛はみな、勇気を振り絞って巣を飛び出します。最初は飛んだといえるものではなく、落下に時間がかかる程度の、そんな羽ばたきのです。中には、地面へ落下する雛もいるでしょう。もしかしたらそこで傷つき倒れる雛もいるかもしれません。親切な誰かの手に拾われることもあるかもしれません。けれど多くの雛は、自らの力で近くの茂みに逃げ込み、地面には落ちなくても、やはり上手には飛べなかった雛と同じように、枝や低い木を上へと登っていき、自らもう一度、飛び立つ練習をするのです。
その努力には、飛びたいという欲望や、カッコよく飛ぼうという気持ちなど、みじんもないに違いありません。それは自然に生まれる努力なのです。鳥の多くは、巣立ってからはじめて地上で飛び方やエサのとり方、敵からの逃げ方、仲間同士の付き合いなどを、親鳥や周囲の鳥から学びます。だからこそ、最初に巣を飛び立つときは、きっとどんな鳥だって、気負って緊張するでしょう。けれどその先は、ただ何も考えないほど、繰り返し繰り返し練習を続けるのです。
自由に羽ばたく鳥のように
日々の生活と学びの中で、次第に緊張が取れていき、無駄な力がなくなったその時。きっと自然に羽ばたいて飛べるようになるのです。人生も同じです。もし外から受ける大きなエネルギーに飲まれてしまい、欲望と執着に囚われたり、惰性で何かを続けていたりする自分がいたら、もう一度、欲がなく一心に練習を続ける自分を振り返ってみましょう。
目的の達成のために頑張る時。理想の自分になるためにひたむきに努力している時。アビヤーサとヴァイラーギャを思い出してください。離欲と修習はふたつでひとつ。努力を怠らず、しかし力まず、鳥が羽ばたく時のように自然に。
自分の持つ最大の力、最大の能力、最大の輝きを得るのは、そんなアビヤーサとヴァイラーギャを体得できた瞬間かもしれません。