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今回は【サーンキャ哲学】について紹介していきたいと思いますが、その前に…そもそも、ヨガとは何でしょうか?
ヨガスートラの冒頭部分はあまりに有名ですね。
Yoga Chittavrittinirodhah (ヨガスートラ1章2節)
(ヨガとは心の働きを静止させること。)
「心の働きを止める」の意味を考えたことがありますか? ヨガの実践をしている人の中で、心の働きを止めたいという目的でヨガを始めた人はいないでしょう。
ヨガスートラは現存するヨガの書籍の中で最も古く、もっとも沢山の人に読まれてきた教典です。ヨガスートラの中で書かれた八支則の実践は、心をコントロールして最後にはその働きを完全に静止させるための実践です。
完全なる静止が意味するのは、「自分の本性」との出会いです。
ヨガの実践により心を静止させると、自分自身を知ることが出来ます。思考は湖の水の波紋のようなものです。水面が荒れていると湖の底を見ることはできませんが、水の動きを止めることで湖の底を見ることが出来ます。
そして、ヨガで心を静止することにより出会える、“自分自身が何か”を説明した哲学が【サーンキャ哲学】です。
サーンキャ哲学はヨガの実践から生まれた哲学
ヨガとサーンキャ哲学は、常に一対の存在として考えられてきました。
ヨガの起源に関しては、現在でも正確には分かっていません。紀元前何千年という太古のインダス文明の頃から瞑想のようなことが行われていただろうと云われ、紀元前千年以上前に書かれたヴェーダと呼ばれる経典に何度も「ヨガ」という言葉が登場します。
しかし古代のヨガは、森や山奥でグル(師匠)からシーシャ(生徒)に口伝えでのみ伝えられた秘儀でした。そのため、いつ頃どのようなヨガが行われていたのかは全く記録が残っていません。
このように、全く記録に残さずに伝えられてきたヨガの伝承の中で、先人たちが伝えてきたヨガの真実を哲学としてまとめたものが、サーンキャ哲学です。サーンキャ哲学では、ヨガ修行者が瞑想の実践により研ぎ澄ませた「視る力」によって知り得た宇宙の仕組みを説明しています。
宗教では始祖の存在から、ヨガでは瞑想の中から宇宙を説く
多くの宗教では、始祖の存在から宇宙の出来上がる仕組みが説明されます。
ヴィシュヌ神は、千の頭を持つ竜の上で寝ていました。そのおへそからブラフマン神が生まれ、ブラフマンがこの世界を創造しました。
これが宗教的な世界の始まりです。
それに対してヨガ派の人たちは、瞑想の中から宇宙の仕組みを発見しました。つまり、自分からスタートして宇宙の始まりを見つけ出しました。
自分と社会との関係を手放した。自然など自分の外部との関係を手放し、感覚も捨てた。思考を捨てて、自我を手放した。そして、やっと自分の本質に出会えた。それによって、どの様に世界が造られたのかを理解出来た。
これがヨガ哲学です。
ヨガの実践では、自分の外部の世界から徐々に自分の内側に意識を向けていきます。最後に、自分と世界の根源になった根本原理に出会います。
全て太古のヨガ賢者たちがヨガの実践で見つけだした体験をもとにしています。卓上の理論と違い、私たちでもヨガの実践を正しく行えば体験することの出来る、体験をともなった哲学です。
プルシャとプラクリティの出会いによって世界は作られた
先人たちは、瞑想によって自分の内側の深い部分に意識を向けて行った時、自分自身の「心」でさえ物質的な社会の一部であり、それを手放すことで純粋な真実の自分がいることに気が付きました。それがプルシャ(真我)と呼ばれる本当の自分です。
プルシャ:純粋無垢な傍観者
プルシャは純粋無垢で、途切れなく永遠と存在し、とても静かに平穏、そしてとても幸せな状態を保っています。
プルシャ自身には思考は無く、自分と他者を分けて認識する自我もありません。世界を照らし、傍観する能力のみを有します。そのためプルシャのことを傍観者とも呼びます。
プラクリティ:物質原理
プラクリティ(物質原理)は、「サットバ(純質)」「ラジャス(激質)」「タマス(鈍質)」と呼ばれる3つのグナ(性質)によって構成されています。プラクリティ単体で存在している時には、3つのグナのバランスが取れているため、動きがありません。世界に存在するプルシャ以外のものは、全てプラクリティを元に発生しました。プラクリティは、物質的な世界全ての根本です。
トリグナ(3つのグナ):物質を構成する性質
- サットバ:純粋に支配されている。喜び、透きとおった、公正、軽さ、知性など
- ラジャス:激質に支配されている。動き、激しさ、痛み、活発など
- タマス:鈍質に支配されている。怠慢、重たさ、濁り、暗黒、眠たさなど
プルシャとプラクリティが出会い、外の世界が生まれた
さて、プルシャ(真我)とプラクリティ(物質根本原理)は、それぞれ単体の時には活動をしません。空間の中に、ただ存在しています。
しかし、プルシャとプラクリティが出会うと、プルシャの光によって照らされたプラクリティの3つのグナのバランスが崩れて、活動が始まります。
- 始めはサトビック(純質)が活発に動き、真の知性であるブッディ(覚)が発生
- ラジャス(激質)やタマス(鈍質)の割合が増えるにつれ、アハンカーラ(自我)やマンス(思考)が発生
- 自我により、自分の内側と外側は違うものと認識
- 自分と他人を区別するために感覚器官が生まれ、それに対する外の世界が誕生
この世の全てのものは3つのグナによって作られましたが、サトビックの割合が多いほど真実に近く、タマスの割合が多いほど真実と遠いものです。ラジャスが強まると、サットバもしくはタマスの活動が活発になり、物質世界の創造が活発になります。
世界を生み出したプラクリティの発展
先人たちが瞑想により、自分自身の「心」でさえ物質的な社会の一部であると気づいたと前述しましたが、それでは「心」とは何なのでしょうか?
心とは、物質原理であるプラクリティから生まれた、下記3つを合わせたものです。
プラクリティから生まれた心の仕組み
- ブッディ(覚):プラクリティから一番最初に現れる精神の根本原理。正しい知性です。マハット(大)とも呼ばれて、大きな宇宙全体の思考原理でもあります。
- アハンカーラ(自我):ラジャスの性質が強くなると、ブッディからアハンカーラが生まれます。アハンカーラとは他者と自分を区別する自我です。自己への執着を持ちます。
- マナス(思考):さらに3つのグナの働きが活発になることで、様々な思考が生まれます。それらをマナスと呼びます。
上記のブッディ、アハンカーラ、マナスの3つを合わせてチッタ(心)と呼びます。
ヨガスートラの冒頭の「ヨガとは心の働きを静止させること」 (ヨガスートラ1章2節)で示している「心」とは、この3つを合わせたものです。
物質世界が生まれるまでの流れ
ブッディが現れてから物質世界が生まれるまでの流れは、下記のようになっています。
- ブッディ(覚)からアハンカーラ(自我)が生まれ
- 自分と外の世界を区別するために、マナス(思考)と5つの感覚器官が生まれました
- 外の世界と関係するための行動器官が生まれ
- 感覚器官に対して唯(感覚の対象)が生まれ
- 唯(感覚の対象)から世界を作る元素が生まれ、物質世界が誕生
- 五感覚器官:目・耳・鼻・舌・皮膚
- 五行動器官:生殖器官・排泄器官・歩行器官(足)・把握器官(手)・発声器官
- 五唯:香唯・味唯・色唯・蝕唯・声唯
- →五大(5つの粗元素):空・風・火・水・土
展開の例を視覚にフォーカスして説明します。
- 感覚器官:外を見る為の「目」が出来ました。これは見る為の感覚器官です。
- 行動器官:目に映ったものに近づくために「足」が出来ました。行動器官は対象に対するアクションをするための器官です。
- 唯:目で見るために対象物の特性である「色」や「形」が出来上がりました。これを色唯と呼びます。
- マナス:視覚で見たものについて考察します。
五唯と呼ばれる感覚の対象が展開して、5つの元素が生まれました。これは、五大と呼ばれる物質的なものを作るための材料です。私たち人間個々も、大きな宇宙全体も、物質的なものは全て五唯(または五大)から作られています。
プルシャ・プラクリティ・ブッディ・アハンカーラ・マナス・五感覚器官・五行動器官・五唯・五大、これを全て足すと、25になります。この世の中は、25の原理で出来上がっていると考えるのがサーンキャ哲学(=数論学派)です。
ヨガの瞑想はプラクリティの発展の逆を辿るもの
サーンキャ哲学は、プルシャとプラクリティから世界が出来上がるまでの展開を理解するための学術ですが、世界の仕組みを知ることが目的ではありません。
ヨガ(瞑想)により、プラクリティの作り出した物質世界の執着からプルシャを開放することが目的です。
ヨガの瞑想では、プラクリティの発展の逆の順序を辿ります。
五唯から作られた物質的な世界を手放し、五感覚器官で感じる世界との接点を手放し、思考の動きを手放します。そして、最後に自我を手放すと、プルシャに限りなく近いブッディに到達できます。(瞑想の実践的な方法に関しては、ヨガ・スートラで詳しく説明されています。)
理論だけでは意味がないけれど、知識は役に立つ!
サーンキャ哲学は、とてもシンプルに世の中の仕組みを説明してくれます。
ヨガの実践での体験を大切にしたい人にとっては、「そこまで論理は必要ないのでは?」と思うかもしれません。しかし、全てのヨガは大まかにでも理論を理解することで格段にスムーズに習得できるようになります。
アーサナを例に考えてみましょう。本来のヨガは身体を客観的に観察してコントロールする鍛錬を行うことで、身体だけでなく心の安定性も習得できます。全く知識なく形だけのアーサナを行えば、ポーズの完成度に意識が向き、身体への執着が増します。身体を痛める危険も増しますが、精神的な囚われを深める行為は、ヨガと全く逆の方向に進んでしまいます。
自我を手放して三昧(サマディ)に到達するところまでを目標にする必要はありませんが、外部の物質、身体だけでなく心までも客観的に観察できるヨガの効果は、ほんの少しずつの変化でも大きく生き方を変えてくれます。
Hari Om…