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近年、マインドフルネス瞑想が流行っているほか、お寺で座禅会に参加される方も増えてきました。ヨガをきっかけに瞑想を始める人が沢山いることは嬉しいです。
瞑想を知らない方にとって、「瞑想」は座って目を閉じている姿しか思い浮かばないかもしれませんが、世の中には非常に多くの瞑想の種類があり、同じように座っているように見えても、意識の持ち方が全く異なる場合もあります。
今回は、日本で最もポピュラーなヨガの経典『ヨガスートラ』で説明されている瞑想をご紹介します。
ハタヨガはラージャヨガ(深い瞑想状態)を目指しての練習
日本で最も浸透しているハタヨガは身体を使って自身を高めるヨガです。アーサナ(ポーズ)やプラーナヤマ(調気法)、もしくはムドラと呼ばれる練習を行います。これらの練習はとても大切ですが、古典ヨガの考え方ではヨガのメイン部分はハタヨガではありません。
ハタヨガの最も有名な教典であるハタヨガ・プラディーピカの中では、ハタヨガについて下記のように説明しています。
ハタヨガの智慧、すなわち高度なラージャヨガの達成に導く階段
(第1章1節目)
ラージャヨガの成功のためのハタヨガ
(第1章2節目)
肉体的なハタヨガに対して、ラージャヨガは精神的なヨガのことを指します。
ラージャヨガ、サマディ、ウンマリー、マノーンマリー、アスラ、ラヤ、シューニャ―シューニャ、パランパダム、アマナスカン、アドワイタン、ニラランバ、ニランジャナ、ジバムクティ、サハージャ、トゥルヤ、これらはすべて同義の言葉である。
(第1章3・4節目)
上記のように”ハタヨガ・プラディーピカ”では、精神的なヨガである「ラージャヨガ(上記1語目)」と、ヨガスートラで紹介されている八支則の8番目「サマディ:三昧(上記2語目)」は同意の言葉と書かれています。どちらも深い瞑想状態を指します。
つまり、ハタヨガはラージャヨガ(深い瞑想状態)を目指しての練習だと分かります。
ヨガスートラが伝える瞑想の特徴と実践方法
では、ヨガスートラの中に書かれている瞑想とは、どのようなものなのでしょうか。
現在ヨガを練習している人の中には、前述したマインドフルネス瞑想や座禅など、ヨガ以外の瞑想を実践している方も多いです。今回はヨガスートラの中に書かれている瞑想段階をご説明します。
古典ヨガではこのような瞑想が行われていたのだな、と覚えて頂けると嬉しいです。
古典ヨガの醍醐味は瞑想! アーサナ、プラーナヤマは準備段階
ヨガスートラは、とても詳しく瞑想の実践方法を定めている経典です。
八支則の中のヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤマ、プラティヤハまでの5つはヨガの外的部門と呼ばれる準備段階です。この5つによって身体と精神の準備が出来た後に行う「瞑想段階」が一番の醍醐味になります。
瞑想で起こっている3つの精神段階(サンヤマ)
八支則の中の後半3つを合わせてサンヤマ(綜制)と呼びます。サンヤマのステップは下記のとおりです。
- ダーラナ(凝念):一つの対象に意識を集中させること。(例:私は花を見ている)
- ディアーナ(静慮):対象のイメージを膨らませる。(例:花が育つ過程、様々な花など、花のイメージのみをふくらませる)
- サマディ(三昧):対象を見ている「自分」が消える(例:花を見ていた自分を忘れて、花のイメージだけが頭に残る)
瞑想というと頭を空っぽにするイメージが強いと思いますが、ヨガスートラの場合には、いったん1つの対象を決めて、それに対して集中して意識を向けます。
意識を向ける対象の選び方
対象は自分に対して好ましいものであれば良いと言われます。
出来るだけサットバ(純質)に近いものが良いでしょう。例えば美しい花でも良いし、高い次元にいるの聖者でも良いです。私の先生はいつも仏陀を対象としていました。
さらに、聖音オームは、音自体がとても純質なので対象として適しています。
実際の瞑想方法
- アーサナなどの練習で安定させたポーズで座る
- プラティヤハで外部に対する感覚を抑える
(ここまでは準備段階です) - 一つの対象を想念する。(ダーラナ):「私」が「花」一点に意識を集中するという状態です。
対象が「花」であれば、一つの花をイメージして、たった一点のみに集中して、その他の雑念が生まれないようにします。 - 対象を膨らませる。(ディアーナ):「私」が「花」に対してのイメージを膨らませている状態。
ダーラナではたった一点だった「花」のイメージが発展して、様々な種類の花や、花が種から成長する過程が思い浮かびます。花のイメージで思考が満たされていることで、それ以外の雑念が生まれません。 - 対象を見ている自己が消える。(サマディ):ディアーナまでは「私」が「花」を見ている状態でしたが、それを続けると観察者である「私」が消え、「花」のイメージのみが残ります。
「自我」が意識から消失した状態です。
3・4・5がサンヤマの段階ですが、これらは自然に移行していくものです。
早くサマディに到達したいと思い「自分を消そう」という思考が生まれると、それが雑念となりサンヤマよりも前の段階に戻ってしまいます。瞑想とは「すること」ではなくて起こるものです。成功を求めずに、与えられた方法を信じて常修することが一番の近道になります。
ヨガのゴール=サマディではない?!本当の目的とは?
すでに説明したヨガスートラにおけるサンヤマの説明を聞くと、あれっ?と思いますよね。
「サマディ」=「悟り」だと思っていたのに、この状態が「悟り」になるのでしょうか?実は、サンヤマのプロセスだけでは、「サマディ」=「悟り」や「完全なる寂静」となるにはまだ物足りません。
ヨガのゴール=「サマディ」ではありません。
サマディは八支則の段階の1つであり、それ自体がゴールではありません。サマディとは、「私」という自我が完全に消えた状態のことを指します。
サーンキャ哲学の基本が分かっていると理解しやすいのですが、「自我」は「アハンカーラ」と呼ばれ、「プラクリティ(物質原理)」から生まれた物質の一つです。
参考:サーンキャ哲学とは?簡単解説、瞑想を理論的に深めよう!
「私」と「他人」を区別するアハンカーラ(自我)の働きによって、様々な思考や感情(マナス)が生まれます。
サマディ到達後もさらなる高次元のサマディを目指して瞑想を
サマディには低次元のサマディと高次元のサマディがあります。
自分の真の本質である「プルシャ(真我)」には「私」と「私以外」という区別がなく、平等の境地です。自我が消えたサマディの状態は限りなくプルシャに近いのですが、サマディに到達してからも、さらに高い次元のサマディを目指して瞑想を続けないといけません。
サマディの「有種子三昧」と「無種子三昧」
サマディに入ってからも様々な思考の動きを一つずつ消していく必要があります。サマディを大きく分けると無種子三昧と有種子三昧があります。
- 有種子三昧:まだ、対象となる外部のイメージが残っている状態。思考の原因(種子)が存在している
- 無種子三昧:対象のイメージさえ消え、全ての思考が止まった純粋な寂静の状態
有種子三昧はさらに細かく4つに分けられることが多いですが、とても微細な違いのために解釈が研究者によって解釈が違います。有種子三昧から無種子三昧への移行も自然に起こり、私たちがコントロールできるものではありません。
しかし、鍛錬を積むと、いつでも無種子三昧に入れるようになります。それが、ヨガの境地に到達点した人と言われる人です。
瞑想によって訪れる純粋な寂静の効果
八支則の全ての効果は、途中段階でも感じることが出来ます。
サマディ(三昧)に向けての道のりは簡単なものではありませんが、ほんの一部分の練習だけでも大きな効果があります。アーサナやプラーナヤマを練習している方は既にその効果を実感していると思います。ヨガの初期段階の練習だけでも、その効果は絶大です。
瞑想のサンヤマ(ダーラナ・ディアーナ・サマディ)は自然に起こるものなので、自分で努力してもいつ訪れるかは分かりません。しかし、どの段階であっても、瞑想の効果は自身の精神状態の変化で簡単に感じることが出来ます。
- 思考が整理でき、スムーズに考えがまとまるようになった
- 感情のふり幅が少なくなり、穏やかな心を保ちやすくなった
などの効果は、瞑想初期のころから感じることが出来ます。
今回はヨガスートラで解説されている瞑想の段階を説明しましたが、自分に合ったどの方法でもいいので、瞑想を始めてみることをお勧めします。