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ヨガ・スートラの中にはイシュワラ(自在神)という言葉が出てきます。ニヤマの1つでもある「イシュワラ・プラニダーナ」は有名かと思いますが、これは「神への信仰」のことを指しています。
ヨガの実践から生まれた真実を哲学としてまとめた「サーンキャ哲学」は本来、神の存在を否定していると云われています。では、ヨガにおけるイシュワラの存在とは何なのでしょうか?
参考:サーンキャ哲学とは?簡単解説、瞑想を理論的に深めよう!
今回はヨガ・スートラに焦点を当てて、ヨガと宗教の違いについて書きたいと思います。(ハタヨガにおけるシヴァ神やヴィシュヌ神信仰については、今回は触れません)
イシュワラとは?自在神?至高神?純粋意識?
イシュワラはサンスクリット語の言葉です。イシュワラに対しての英語訳、日本語訳はたくさん存在します。シンプルに「神」とされることも多いです。
ヨガ・スートラの中に出てくる場合は、佐保田鶴治先生の翻訳に出てくる「自在神」という訳語が有名ですが、「至高神」や「純粋霊性」、「純粋意識」など様々な呼び方があります。
イシュワラは、ヨガ・スートラ成立よりもずっと古い時代から使われていた言葉です。インドではシンプルに「神(God)」と訳されることが多く、創造主のような意味合いで使われる場合もあり、時と場合による気がします。
ヨガ・スートラでは以下のように説明されています。
イシュワラは苦しみ、カルマ(行為)、カルマの結果、カルマへの依存に1度も触れていない特別に純粋なプルシャである。
(ヨガ・スートラ1章24節)
プルシャ(真我)とは、私たち一人一人の内側に存在する自身の本質であり、霊性や魂のような存在です。
私たちのプルシャは、物質原理であるプラクリティと出会うことにより、物質世界との接点が生まれて、この世の物質的な制限や、カルマ(業)に束縛されています。
しかし、イシュワラと呼ばれる特別なプルシャは、一度も物質世界のカルマや苦しみに接したことがなく、常に純粋な状態を保っています。
イシュワラは、複数存在するプルシャの中の、特別なプルシャです。(あくまでも、ヨガ・スートラの中の定義です。)
プルシャ・プラクリティに関する参考記事
イシュワラは古代からのグル(先生)。イシュワラが私たちにしてくれること
ヨガ哲学において、イシュワラの存在はグル(先生)です。
ヨガ・スートラにおいてのイシュワラの存在意義は、次の一節に書かれています。
イシュワラは時間による制約を受けない存在であるため、古代のグルにとってもグルであった。
(ヨガ・スートラ1章26節)
ヨガでも「師」のことを「グル」と呼びますが、インドの伝統文化においてもグル(先生)の存在は非常に大切です。
現代のインドにおいても、先生への尊敬の念はとても大切な伝統として残っていて、スピリチャルな教えや伝統文化を習う場合には、自身の先生を神様のように深く尊敬し、親子の関係のように深い人間関係を築きます。
現代では書籍やネットなどでヨガを学ぶことも出来ますが、伝統的な方法では全てグル(先生)からシシャ(弟子)に口頭で受け継ぎます。知識だけでなく、実際に体験をした人から導かれないと正しく学べないという考えもあります。
そのため、全てはグルから与えられたものという意識が非常に強いです。
「古代のグルにとってもグル」とはどういう意味でしょうか?
イシュワラ(=プルシャ)は肉体など時間の制限を有していないため、古代から永遠と存在しています。ヨガは、古代の賢者(グル)も彼らのグルからの教えを受け継ぎました。
では、ずっと昔まで辿って、一番最初のグルは誰だったのか?の答えがイシュワラです。
イシュワラは、古代のグルたちにとってもグルでもありますが、時間の制限を受けないため、現在の私たちにとっても変わらずグルとして存在しています。
正しい知識は全て自分自身の内側に存在します。
しかし、その知識を引き出すためには、すでにそれを知った人(グル)の存在が必要です。本当の知識に到達したグルに出会うことは安易ではありません。そのため、正しいグルに出会えない修行者にとっても、知恵を与えてくれるグルとしてイシュワラが存在しています。
ヨガの神(イシュワラ)と、宗教的な神との違い
ヨガ・スートラで説明されているイシュワラは、全てのヨガ修行者のグル(先生)ですが、宇宙の支配者である神や、人格神とはだいぶ違います。
宗教的な神は、多くの場合、救いを求めて信仰されます。信者は、祈り(祭儀)や供え物、犠牲を提供することで神からの恩恵が受けられると考えます。(他力本願)
一方イシュワラは、物質的な苦しみの根源(飢餓や病、自然災害など)を取り除いてくれることもなければ、望んだもの(富みや豊作、子宝など)を与えてくれることもありません。神を怒らせても祟りがおきるワケでもありませんし、大きなお寺もお布施も求めません。
私たちはイシュワラをどう捉え考えたら良いのか?
グルの存在は私たちのヨガの成功(無種三昧に入ること)を助けてくれます。
イシュワラへの完全な帰依によっても(無種三昧は)実現する。
(1章23節)
無種三昧に関する参考記事
・ヨガ・スートラの瞑想:特徴と実践方法—サマディ(三昧)への道—
ここで出てきた「イシュワラへの完全な帰依(イシュワラ・プラニダーナ)」とはどのような意味でしょうか?
先に述べた通り、イシュワラは一度も汚されていない純粋なプルシャです。最も純粋なプルシャを念想し、完全に心をあずけている状態は、プラクリティ(物質原理)が作り出す世界に全く惑わされない状態です。すなわちそれは無種三昧の状態と一致しています。
ニヤマの1つでもあるイシュワラ・プラニダーナ(神への信仰)に対しては多くの解釈があり、中にはバクティヨガ(信愛のヨガ)と同様の宗教的な解釈も存在します。
しかし、イシュワラ・プラニダーナがヨガ・スートラの8支則の1つとして書かれていることを考えると、自身の心をコントロールするための重要な鍛錬方法になるのではないでしょうか。
イシュワラの名前「オーム」を唱える効果
イシュワラを言葉で表したものが「オーム」ですが、ヨガ・スートラではオームを復唱することによってヨガ修行の障害が取り除かれると書かれています。
その実践(オームを繰り返し唱えること)によって意識は内側に向かい、(サマディへの)障害を取り除くことが出来る
(1章29節)
ヨガの障害は以下の通りです。
- 病気:肉体的な障害
- 無気力:やる気の出ない状態
- 疑い:この実践で正しいのか?という迷いはヨガの修業で必ず訪れます
- 散漫:集中できない状態
- 怠惰:怠ける心
- 快楽への執着:世間的な対象への興味
- 妄見:謝った知識(例:三昧に入ったという勘違い)
- 三昧への不入:なかなか三昧が訪れない状態
- 三昧からの脱落:一度訪れた三昧から離れてしまった状態
「オーム」という、イシュワラを表した非常に強力な波動をもつマントラを復唱することで、ヨガにおける全ての障害が取り除かれます。
「AUM」がイシュワラを表す理由は、唯一制限がない言葉だから
もっとも純粋なプルシャであるイシュワラ。それを表す言葉はオーム(AUM)です。
イシュワラを表現した言葉は 神秘的な音オームである。
(1章27節)
通常、どの様な名前であれ、名前を与えられるとその名前によって音の制限が与えられてしまいます。しかし、イシュワラ、つまり純粋なプルシャとは時間の制限がなく、限るなく幸福な状態であり、どのような制限からも自由でなければいけません。
あらゆる言葉の中で、唯一制限のない言葉がオームです。
オームはAUMという3つの音により構成されています。
- 【A】全ての始まりの音
- 【U】中間の音
- 【M】最も終わりの音
オーム(AUM)は始まりと中間と終わりを含んでいる言葉であり、全てを含んだ音です。つまり、どのような制限にも縛られない言葉であり、プルシャの状態を表すことの出来る唯一の名前です。
イシュワラを表すAUMの境地は、無種三昧の状態です。私たち自身がヨガの実践によって到達することの出来る境地です。
ヨガは他力本願では叶わない。成功は自分の内側に
ヨガ・スートラに書かれる「イシュワラ・プラニダーナ」は三昧にさえ到達できる方法ですが、与えられるものではなく、実践者が自身で行う鍛錬方法です。
グル(先生)であるイシュワラは道を授けてはくれますが、歩いて進むのは自分自身です。
心の働きの止滅は、常修と離欲によって起こる
(1章12節)
ヨガにおいては、繰り返しの実践と、離欲(あらゆる執着を手放すこと)が必要です。常修と離欲、どちらも実際に行うのはとても難しい。その障害を取り除いてくれるのもイシュワラ(オーム)です。
ヨガは、宗教やスピリチャル的に見える部分もありますが、とても理にかなった実践論です。
自身の外側(神や預言者など)に救いを求める宗教と、自分の内側に幸せを見つけるヨガでは、やはり大きく違うと思いますが、いかがでしょうか。