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ヨガをもっと深めたいと思いバガヴァッド・ギータを手に取った方のほとんどが、「これ宗教じゃない?」と感じるのではないでしょうか。
バガヴァッド・ギータはバクティヨガ(神への信愛のヨガ)の経典としても知られています。
バクティヨガは、「神」という言葉が頻繁に使われることに加えて、盲信に神様(クリシュナ)に祈念するヨガだと思われがちです。そのため、「私には関係ないかな」と思う方もいるかもしれません。
しかし、バクティヨガの仕組みを正しく理解すると、本質は他のヨガと変わりないと気が付くことが出来ます。今回は宗教ではないバクティヨガの実践についてご紹介します。
結論:バクティヨガは宗教なの?
大前提ですが、インドでバガヴァッド・ギータ(以下「ギータ」とする)はヒンドゥー教の聖典として知られています。日本ではヨガを深めたい人が手に取ることが多いですが、インドでは宗教に熱心な方が読んでいることが多いです。
インドでヨガが一般庶民に親しまれているようになったのは、西洋から逆輸入されるようになってからの数十年の歴史しかありませんが、ギータはそれ以前からクリシュナ神の教えとして広く読まれています。
ギータを読むと、クリシュナはヨガスートラで書かれている方法と同様の古典ヨガ(ラージャヨガ)についても説明しています。瞑想によるヨガの実践方法にも精通していたクリシュナは、ギータではなぜ盲目な神への信仰を強く勧めているのでしょうか?
バクティヨガの必要性を理解するために、少しだけギータの生まれた背景を説明します。
バクティヨガが生まれた背景は「救い」のため
ギータ以前の時代には、ヴェーダの学問はバラモン(司祭)の家系に生まれた人にだけに開かれた学問でした。
一般市民はヴェーダの哲学について学ぶことは許されていませんでした。しかし、飢饉や権力争いなどで世の中が荒れた時代には、一般大衆にも救いが必要です。一般の人にも分かりやすくヴェーダの教えを説いたものがギータです。
ギータでは、学問の土台のない一般的な人に対しても分かる言葉で救いの道を説明する必要がありました。そこで全面的に勧められたのがバクティヨガです。
つまり、どんな人でも実践できるヨガ、誰のことも見捨てないヨガ、それがバクティヨガです。
自分自身を鍛錬する方法としてのバクティヨガ
ただの宗教ならば興味がない人も多いかもしれません。しかしギータは、ヨガの経典としても、大変優れた教典です。
ギータを宗教の立場から読む時と、ヨガの教えとして読む時では、少し見方を変えてみると分かりやすいでしょう。ヨガ的な捉え方で読み込むと、ヨガスートラで書かれたヨガと矛盾を感じることなく理解が出来ます。
以前「ヨガと宗教」の記事でも書きましたが、ヨガは他力本願ではなく、自力本願でなくてはいけません。それは、ギータにも書かれています。
参考記事:
自ら自身を高めるべきである。自身を沈めてはいけない。自分こそが自分の友である。自分こそ自分の敵である(6章5節)
バクティヨガ、神への信愛によって、どうして自身を高めることが出来るのでしょうか。ギータに書かれたヨガのうち、2つのヨガを例にとって説明します。
神に帰依することで自身の本質を知る
常に神に帰依することによって自身の本質を知る
常にクリシュナ神に祈念するヨガを常修のヨガ(アビヤーサヨガ)と呼びます。四六時中、神への信愛を心に抱くヨガで、誰にでも可能な実践方法です。
常修のヨガに専念して、他の事柄に惑わされず念ずると、人は最高のプルシャに達する。(8章8節)
常に私に専念して、喜びをもって私を信頼する人々に、私は知性のヨガ(ブッディヨガ)を授ける(10章10節)
この常修のヨガは、神(クリシュナ)への信愛に専念するというヨガですが、それによって最高のプルシャ=アートマンに達することが出来ると書かれています。10章では常修のヨガによって知性のヨガが与えられると書いてありますが、これはプルシャの状態に到達した状態と同意です。
プルシャ・アートマンに関する参考記事:
クリシュナ(=神)とはブラフマン(宇宙の本質)です。
ブラフマン(本質)に専念するということは、プラクリティ(物質の根本原理)によって作り出された自我や、幻(マーヤー)である外の世界に惑わされないことです。
それは、ヨガスートラ8支則のダーラナから始まるサンヤマに近い状態ではないでしょうか。
インド思想においての神とは、宇宙全体の本質であるブラフマン。
外の世界と自身を切り離すこと、アートマン(自身の本質)とブラフマン(宇宙の本質)が一体であることを知ることはとても難しいことです。しかし常修のヨガでは、クリシュナという偶像をイメージするのでとても容易い方法です。
俗世の事柄に惑わされずにブラフマンを念じることは、自身で真実にたどり着くための行為であり、他力本願に見えて、しっかりと自身を磨く鍛錬なのです。
全てが神への祈り=自我からの解放
全てを神への祈りとして行う=自我から解放される方法
放棄のヨガ(サンニヤーサヨガ)とは、自分の行った行為との執着を放棄するヨガです。
実践的な方法としてクリシュナは、全ての行為を神への捧げものとして行うように教えます。
あなたの行うこと、食べる者、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それらを私への捧げものとしなさい。(9章27節)
祭祀の残りものを食べる人は全ての罪から解放される。自分のために調理する悪人は罪を食べる。(3章13節)
これは、実際に神に供え物を贈る行為ではなく、自分自身が行う行為全てを神に供えるための行為のヨガとして行うという教えです。
「神のため」に行う行為とはどういう意味でしょうか。
それは、結果に束縛されない行為です。
通常の行為は「結果のため」に行います。そのため、私たちの心は行為の結果に一喜一憂します。「行為」と「その結果」の繋がりに縛られているため、私たちの心は自由になることが出来ません。
「神のための行為」とは、その行為は神に贈るための行為なので、結果は重要ではありません。
「祭祀の残りものを食べる」とは、神に捧げたお供え物を祭儀の後に頂くこと。それが果物であっても、お菓子であっても、ナッツであってもありがたく頂きます。自分に与えられたものに満足が出来る状態は、ヨガスートラのサントーシャ(知足)に似ています。
そして、「自分のため」という自我を捨てることをサーンキャ哲学の言葉で言い変えると、プルシャ(真我)とプラクリティ(物質の根本原理)の結びつきを開放することです。ヨガスートラのヨガでは、座って瞑想することで達成しますが、社会生活に追われて瞑想に専念できない人であっても、日常をヨガとして行うのがギータのヨガです。
放棄のヨガの本来の意味である「行為の結果に執着してはいけない」という教えは、実践するのがとても難しい教えです。だからこそ、「私への贈り物として行為をしなさい」という、誰にでも実践しやすいアプローチを説いたのだと思います。
ヨガで目指す場所へのより簡単な方法がバクティヨガ
どうしてクリシュナは「私を信愛しなさい」、「私のために行動しなさい」と説いたのでしょうか?
ヨガスートラもギータも、アートマンやプルシャに到達することを目的としていますが、バクティヨガでは世の中の多くの人にとってより簡単な方法で到達出来るように教えてくれています。
ヨガスートラの古典ヨガは、人里離れた場所にある小屋に籠って瞑想をするものでした。しかし、社会生活を行っている多くの市民は、修行に専念することができません。クリシュナは、社会の中で日常生活を営む大多数の人にとって、より簡単な方法を説いてくれました。
クリシュナという神様は、道を一つに絞らない神様です。沢山の道を与えてくれています。それは、個性の違う人たちが、誰でも自分に合った方法を選べるようにするためです。ギータは、「誰でも救われるべき」という思いが詰まった経典だと思います。
これからも私たちの生活に活かせるギータの教えをご紹介し続けたいと思いますが、興味を持った方は、ぜひギータの本文を読んでください。あなたに必要なヒントが見つかるかもしれません。