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パタンジャリのヨガ・スートラには、見るもの(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)との区別を目的としたヨガのことが書かれています。この「見るもの」と「見られるもの」を理解することで、ヨガの本当の目的とヨガ実践者である私たちが進むべき道のりを知ることができます。私たちの存在そのものへの理解も深められる、人生を通して学べるテーマです。
今回は、この「見るもの」と「見られるもの」について、実際のヨガの練習の中で活かせるよう、学んでいきましょう。まずは、ヨガ・スートラ冒頭に書かれているヨガの目的を見ていきましょう。第1章2節目はとても有名です。
ヨガとは、心の働きを止めることである(1章2節)
心の働きを止めるとはどういう意味なのか? は3節目で説明されています。2節に比べて引用される機会が少ないのですが、2節を理解するためには続きの3節も併せて読む必要があります。
その時、純粋意識である見るものは自己の本性に留まる(1章3節)
また、「サーンキャ哲学」を少しだけ学ぶことで、この一文への理解がさらに深まります。
私たちが「自分」だと認識しているものは「見るもの(プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」の2つが合わさっていますが、本当の自分とは「見るもの」のみです。
しかし、自身の本質であるプルシャを認識することはとても難しく、ほとんどの人は見られる立場であるプラクリティを自分だと思い込んでいます。
けれど、ヨガの目的は、プラクリティによって生み出された心の働きを止めることで、本当の自分(見るもの)の存在を知ることなのです。本当の自分は自分の内側の深いところにいて、とても見えにくい。
ヨガ・スートラでは八支則の実践で段階的に意識を内側に向けます。ヨガの実践により心を落ち着けることは、表面的な感覚や思考に隠れた内側の静けさを探すことです。
「見るもの」と「見られるもの」の関係性とは
- 見るもの=プルシャ、真の自分
- 見られるもの=プラクリティ、物質の根本原理
ヨガの哲学部門を担うサーンキャ哲学によると、私たちはプルシャとプラクリティによって作り出されました。
プルシャ
プルシャは、完全に純粋な意識体です。穏やかで純粋な状態で存在し続けます。行動は起こしません。プルシャの唯一の機能は「見ること」です。そのため、プルシャを「見るもの」または「傍観者」と呼びます。
プラクリティ
プラクリティは、全ての物質の根本原理です。
サットバ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(鈍質)の3つの性質の集合体です。プラクリティのみで存在している時には、上記3つの性質(トリグナ)のバランスが取れているため、活動をしません。しかし、プルシャに出会い、その輝きに照らされることでプラクリティは活動を始めます。
そして、プラクリティに含まれる3つの性質中、サットバ(純質)が優勢になるとブッディ(覚)が生まれます。思考の土台となる部分です。また、ラジャス(激質)とタマス(鈍質)が優勢になるとアハンカーラ(自我)とマナス(思考)が生まれます。プラクリティから生まれたブッディ・アハンカーラ・マナスの3つを合わせてチッタ(心)と呼びます。
このように、心の働きは全てプラクリティから生まれたものです。心の働きも全て物質世界の幻想であり、本当の自分は、プラクリティの作り出した世界を傍観しているプルシャです。真の自分であるプルシャは「見ること」しか行っていないのですが、出会ったプラクリティが作った心の働きや身体を、人は「自分」だと思い込んでいます。
ヨガは、この「見るもの(プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」を区別する(切り離す)ことです。
ヨガは“プルシャに意識を繋ぐ”こと
ここまで読んでいただいて、ある疑問が生じた方もいるかもしれません。「ヨガ」という単語の由来は「繋ぐ」だと知っている方にとって、ヨガは「切り離す」ことというのは矛盾に感じてしまいますよね。ヨガの語源でもある「繋ぐ」というのは、本当の自分(プルシャ)に意識をしっかりと繋ぎとめることなのです。
自分の内側にいるプルシャを意識することは、とても難しいので、心の働きを止めて穏やかな状態にしないと感じることができません。しかし、ひとたびプルシャに心をつなぎとめることができれば、どんな状況であっても穏やかでいられます。
プルシャを理解することは、自分自身の輝きを信じること
普段私たちが「自分」だと勘違いしている「心」は、自らの力で自身を照らすことができない存在です。
心は自分自身を照らすことが出来ない。心は見られるものであるから(4章19節)
太陽は自ら光を出して輝いています。しかし、月は太陽から出た光でしか自身を照らすことができません。私たちは月を見て、輝いていると勘違いをしますが、その光は太陽によって照らされたものです。月は自分自身では輝けません。照らされて見られるもの。それがプラクリティです。
本当の自分は、自分自身で輝ける。何も足さなくて良い
心が物事を判断する時は、感覚器官からの情報に依存します。たとえば「自分の美しさ」は、鏡に映った視覚情報や、世間で美しいといわれている誰かと比較したり、聴覚から入ってきた他人の意見を頼りにジャッジします。自分自身で確信を得ることができません。研究者が一つの答えを出す際には、自己基準ではなく実験機器に依存するように、心は自己で見極めることができないのです。
それに対して、ヨガで真の自己を知った人は、自分自身の輝きを知っているため、“外との繋がり”を司る感覚器官に頼る必要がありません。プルシャ(真我)を知ることによって、他者(外側の情報)に依存しなくなるのです。そして、あらゆる不安や苦悩から解放されて、常に輝ける存在となります。
ヨガの練習でも「見るもの」と「見られるもの」を意識して
では、実際の練習ではどのように活かしたらいいのでしょうか?いきなり、「プルシャとプラクリティを、目指して」と言われても難しいものです。ただ、ヨガのクラスでは、無意識に「見るもの」の立場に意識を変換していることが多いのも事実です。
たとえば、「自分自身の感覚を観察する」、「筋肉の動きを観察する」など、アーサナを練習している時は、自分自身を観察することが多いと思います。「観察する」というのは「見るもの」の立場になって、自分を客観視することです。
そうして常に自分を客観視することで、自分自身の身体や心への強い依存を緩めることができます。自分の身体や、感覚を客観視することに慣れてきたら、練習中の心の働きを傍観する習慣を磨きます。
最初は、先生や周りのクラスメイトにどう見られているのか気になったり、他者と自分を比較していることに気付くかもしれません。まずは、この心が外側に向いている状態を知ること。それが大切です。そうして初めて、徐々に心を内側に向けることができるようになります。
心を観察するのに最も適している方法は瞑想ですが、瞑想の習慣のない人でも、アーサナ後のシャバアーサナで自然に行っていると思います。「止めたい」と考えても、勝手に浮かんでしまう思考を無理に止めることは難しいですが、どのような思考が生まれているのかを、観察することはできるでしょう。
こうして、常に自分自身を客観視する癖を身に付けて、「見るもの」と「見られるもの」の区別を意識することは、結果的に心をコントロールするスキルを身につけることに繋がります。
まとめ
ヨガ・スートラの哲学は簡単ではありません。けれど、理解できるとヨガの効果は何倍にも高まります。今回の内容を理解するためには、サーンキャ哲学の基本的な知識も必要となります。
ヨガ・スートラは、とてもシンプルに書かれている文章も多く、解説がないと分からない部分もあるでしょう。急に多くを理解する必要はありません。ただ、セオリーを少しずつ取り入れて日常の実践に活かしていただきたいです。
今回書いた「見るもの」と「見られるもの」を意識するだけで、同じアーサナを練習していても、精神的な効果が全く違ってきます。