心が楽になると思って始めたヨガ。初めてヨガのクラスに出た時にはとても気持ちが良かったけれど、気が付くとポーズへの執着などで余計に悩みが増えてしまった……。そんな経験はないでしょうか。
“一生懸命”ヨガに向き合うほど、かえって悩みを生み出してしまうことがあります。古典ヨガでは、「ヨガへの執着は、ヨガの障害」だと考えられていました。古代の教典にはどのように書かれているのかを学ぶと、自分自身の執着を見直すきっかけになります。
ヨガは結果より実践が大切
どのような時に、ヨガの練習によって悩みが増えてしまうのか。考えられる理由を見てみましょう。
- 思ったようにポーズができない
- つい人と比べてしまう
- 無理な練習をして身体を痛めた
- 思考を止めようと思うほど雑念が浮かび、瞑想ができない
……など。
これらの悩みによりヨガの時間が心地よくないものになってしまうと、練習への意欲がなくなってしまいますよね。結果、ヨガから離れてしまう方もいらっしゃいます。しかし、インストラクターなどをしていると、建前上「ヨガは心地良い」と指導し続けなくてはいけません。けれど本心では悩んでいる。そのジレンマがさらに大きな苦しみになってしまいます。
そんな時には、もう一度ヨガの本質を振り返ってみましょう。ヨガは身体や呼吸を使って“心をトレーニングする方法”です。結果を求めて行うものではなく、練習を行うこと自体に意義があります。
目標を定めて練習をすることはとても大切ですが、結果に執着してはいけません。意識を「何を得たか」ではなく、「どう感じたか」に向けましょう。
あなたの義務は定められた行為を行うことであるが、その結果ではない。結果について考慮するべきでない。また、行為をしないことに執着してもいけない。(バガヴァッド・ギーター2章47節)
ヨガの練習によって柔軟性や強さが増したり、病気が改善することもあります。しかし、正しい努力を積み上げていても、得られる効果には個人差があり、不意の事故などで急に身体を動かせなくなることもあります。
ヨガの練習では、できるだけ身体を快適な状態に改善する努力をしますが、その結果がどうであっても、常に満足できるように心の状態を整えることが本来のヨガの目的です。
それゆえ、行為の結果に執着しせずに、自分の行為を全うすべきである。結果に執着せずに行為を行うものには至高の状態が訪れる。(バガヴァッド・ギーター3章19節)
私たちの苦しみは、執着から生まれます。では、どうすれば執着を手放せるのでしょうか。育児を例に考えてみましょう。
たとえば「礼儀正し人に育って欲しい」と願うあまり、感情的になってしまう母親がいるとします。本当は、生まれてきてくれただけで、愛おしい存在なのに、日々の疲労も重なり、ちょっとしたことでも、ついイライラして怒ってしまう。かけがえのない子どもとの時間を楽しく過ごせない……。そんな悩みを抱える親御さんは多いかもしれません。
子育てをヨガ的に見るなら、それは「子どもにとって最善だと思う教育はする。しかし、思い描いた立派な人に成長しなくても、いてくれるだけで幸せ」ということを自覚できるようになるための心の鍛錬です。子どもを叱る時でさえ、愛をもって接するトレーニングともいえます。そのためには、外部からの情報ばかりに翻弄されず、自分の心と向き合うことが最善の道です。
つまり、最善の努力はしつつ、その結果で評価をしないこと。それが執着を手放すということです。
「こんなに頑張ったのに、どうしてうまくいかないのだろう」という考え方が、一番自分を苦しめてしまいます。先に紹介した、バガヴァッド・ギーターの一文、「結果に執着せずに行為を行うものには至高の状態が訪れる」とは、苦しみの原因となる結果への執着から解放された状態です。
成果を急ぐと、逆効果になる
「結果に執着した行動」は、精神的な苦しみの原因となるだけでなく、物質的な障害の原因にもなります。
ライオン、象やトラが徐々に調教されるように、呼吸もゆっくりとコントロール出来るようになる。さもなくば(急げば)、その人を滅ぼすだろう。(2章15節)
この一文はハタヨガ・プラディーピカのプラナヤマ(調気法)について書かれた有名な言葉で、ヨガの練習すべてに当てはまります。この教典の中では、教えを信じて繰り返し実践を続ければ必ず成功が訪れることを何度も説いていますが、結果を急ぐことの危険性に関しても触れています。
アーサナの練習を急げば、当然無理をして筋肉を伸ばし、その結果怪我をしてしまうリスクが上がります。バンダを強くしめるようなポーズであれば、内臓などへの負担もかかります。
古典ヨガでは、必ずグル(師)が生徒の練習の進行を決定していました。しかし、グループクラスが一般化した現代のヨガでは、何を練習するかを、練習生自身で決めるのが一般的です。
結果を求める練習は、自分の身体の許容範囲を超えた無理を招き、かえって身体を傷つけてしまいます。だからこそ、結果ではなく練習自体に意識を集中させるのです。結果を焦らずゆっくりと練習することで、呼吸・身体・心を必ずコントロールできるようになります。
得たものへの執着も危険
練習によって得た成果に対しても執着をしてはいけません。古典ヨガでは、サンヤマ(ダーラナ・ディアーナ・サマディ)の実践により超人的な能力を発揮することができます。たとえば、自分自身の身体にサンヤマを行うことで、他人から見えなくなってしまうといわれます。
自分の身体の形態にサンヤマを行えば、(他者の)目と光の接触が停止し、ヨーギーの身体は誰からも見えなくなる。(ヨガ・スートラ3章21節)
こうした、いわゆる超能力は日本人の私たちには、うさん臭く感じられるかもしれませんが、私がヨガの勉強をしていた聖地リシケシには超能力で有名なヨーギーがいました。数十年前まで生きていらっしゃった方で、海外のジャーナリストが何度も訪ねてきていましたが、なぜか写真には一切映らなかったそうです。
瞑想が中心だった古典ヨガでは、その結果得られる超能力が、執着の対象となりました。アーサナ中心の現代ヨガでは、ポーズの美しさやアクロバティックなアーサナに執着しがち。特にSNSの普及した現在では、それが顕著です。
それら(調自然力)はサマディにとって障害となる。俗世にとっては超能力であるが。(ヨガ・スートラ3章37節)
ヨガ・スートラでは、ヨガの実践で得た能力を障害だと明記しています。ヨガとは「心の働きを止めること」です。自分の能力に対する慢心はヨガの目標である“平穏な精神状態”と最も遠い状態といえます。
ヨガの実践によりさまざまな能力が高まりますが、自分が得たものにさえ執着をしないことで、より幸福に近づくことができます。
ヨガの障害とは病気、無気力、疑心、落ち着きのなさ、ものぐさ、執着、妄想、サマディに到達できないこと、サマディに留まれないこと、など、全て散乱な心の状態である(1章30節)
ヨガ・スートラの1章では、ヨガの障害として一度到達したサマディ状態から抜けてしまうことが書かれています。なぜ、再びサマディに入ることが困難になってしまのか。それは、一度体験することでサマディへの執着が強まってしまうためです。
その状態を脱することは安易ではありませんが、乗り越えることによって大きく成長することができます。
自分自身の心を観察することもヨガの練習
心をコントロールすることはとても難しいもの。「執着をやめる」と意図しても、自然と沸き起こってくるものでもあります。それを手放すことは容易ではありません。
徐々に弱めていくためには、じっくりと自分自身の心を観察することが必要です。思考の働きは無自覚に起こっていることがほとんどですから、まず“知ることから”始めなくてはいけません。自分自身の心を理解することが、自身を変えるための最も大切な段階です。
せっかく行っているヨガで自分を苦しめないために。多くの人が、心と向き合うことを実践し、本来のヨガの効果である心の穏やかさを得られますように。