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ヨガは哲学でもありますが、哲学を学ぶことがヨガではありません。アーサナはヨガの1部ですが、ポーズの形を整えることがヨガではありません。インドのヨガ業者は宗派ごとに決められが服装をしていますが、衣装によってヨガが完成するわけではありません。
ヨガは繰り返し実践をして体験することで初めて意味が生まれます。練習の結果、自身の本性に出会う経験をすることがヨガにとってもっとも大切なことです。各教典で繰り返し書かれた実践の大切さをご紹介いたします。
ヨガの実践とは?知識のない形だけの練習では意味がない
まずは、ヨガの実践とその他(エクササイズやストレッチなど)がどう違うのかをバガヴァッド・ギーター(以下ギーターと呼ぶ)の教えから考えてみましょう。
ヨガの実践(行為)は正しい理論や知識と合わさって初めて意味があるものです。形だけの実践には意味がありません。
理論知と実践知によりアートマンが満たされ、揺るぎなく感覚を克服し、土塊・石・黄金を平等に見るヨーギンが「専心したもの」と呼ばれる。(ギーター6章8節)
ヨガによって心が磨かれた人は、美しい黄金などにも心を奪われません。黄金などの高価なものだけでなく、あらゆる物質的な価値に当てはまります。SNSなどで画像や動画をシェアすることが容易くなった現代では、美しく見えるアーサナの写真、美しいヨガウエアを着ることに楽しみを感じることがあります。
しかし、そこに執着してしまうことは本来のヨガとは真逆の行為。外面的な成功を追い求めることには終わりがありません。内側が純粋で輝いている人は、外見に囚われず、自分自身に満足して幸福を感じます。病気などでできないことが増えたとしても、一度築いた内面の穏やかさは変わりません。
本当のヨガ実践者は、常に内側に幸せを求め、見出しているからです。外的な幸福感は条件付き・期限付きのもので、普遍的な幸福とは違います。難しい理論が理解できないとヨガができないわけではありませんが、意識の方向性は自覚して実践するべきでしょう。外面的な効果よりも内側の感覚に意識を向けさせてくれるヨガを選ぶことが大切です。
自身の本質を信じて実践するヨガ
信仰なしに供物を焼べ、布施をし、苦行し、行為をしても、それは“サット(純粋)”ではない。アルジュナよ、それは現世においても来世によっても成果がない。(ギーター17章27節)
信仰とはブラフマンに対する信仰です。私たちの個々の本質はアートマンと呼ばれますが、アートマンは宇宙全体の原理であるブラフマンと一体です。そのため、信仰とは、自分自身の本性を信じることと言い換えることも可能です。
私たちがヨガをする時、この自身の本性、宇宙の本性を信じ、そこに到達するために実践することが、本来もっとも重要なことです。自己の本質を体験するというヨガの目的を無視して、形だけの実践を行っても成果を生むことはできません。
(アーサナで痩せるなどの効果はあるかもしれませんが、ヨガの本来の目的から見た効果がないという意味です。)
知識の剣により無知から生じた疑心を断ち、ヨガに専念しなさい。(ギーター4章42節)
ヨガの定義は特定の行動をすることではありません。形だけのアーサナ、プラーナヤーマ、瞑想、慈善活動(カルマヨガ)、マントラ復唱、どれもヨガの目的を理解しないで行うことはヨガの実践と呼ぶのに不充分です。
本質を理解するため、本当の自分に出会うためのヨガの成功には、知識をもって実践を積む必要があります。
哲学の落とし穴!学んだだけでは意味がない
インドに来ると、インド人のおしゃべり好きに圧倒されてしまいます。ちょっとしたヒンドゥー教のお祭りがあると、テントの中で永遠と説法を話してくれる偉い聖者がいたり、ガンジス川沿いの聖地では必ずチャイを飲みながら何時間も弟子たちに説法を説いている聖者を見かけます。
ヒンディー語の分からない私たちからすると、いったいどんな素晴らしい教えを説いてくださっているのか気になるところですが、ヨガの古典経典では知識のみに偏る危険性も繰り返し書かれています。
愚かな者はヴェーダの聖典に喜び他に何もないと説き、華々しい言葉を語る(ギーター2章42節)
インドでヴェーダは、最も重要な最古の聖典であり、ヨガを含め、現在のインド思想にとっても切り離せない存在です。しかし、ヴェーダ聖典の中に書かれた内容に関して、その華々しい言葉を語ることは、ヨガにとって重要ではありません。
ヴェーダで説かれた内容を理解して実践することに意味があります。実践を伴わなければ、どれだけ神々しい言葉であっても意味を持ちません。
ハタヨガの実践に関して詳しく書かれているハタヨガ・プラディーピカには、そのことがハッキリと書かれています。
ヨガの実践の伴った人にしか成功は起こらない。実践しない人にどうして成功が起こり得よう。ただ経典を読むだけでは、ヨガの成功は起こらない。(ハタヨガ・プラディーピカ1章65節)
ヨガは、実践を伴ってこそ自身を高められるメソッドなのです。知識だけでは全く意味がありません。
議論を好むものによってもたらされる、人々を迷走に導く見解を捨てて、ひたむきに道を進む人がアートマンの知を得る。(シヴァ・サンヒター1章3節)
この、「議論を好む者の迷走に陥る見解」のなかで、とても厄介なのが、「ヨガを評価すること」です。
現在は、情報がとても多いので、様々な種類のヨガがあります。沢山の種類のヨガのクラスを受ける方もとても多いと思います。自分に合ったヨガを求めることは悪いことではありませんが、複数の先生を比べて、「どちらが良かった」「片方の言っていることは間違っている」などと批評するようなことは、絶対に避けるべきです。
インド哲学においても、様々な宗派があるため古代から議論が活発に行われてきました。お互いの理論を並べて比較する。それに興じる行為は、学術的な発展をもたらしましたが、ヨガ修行者の立場から見ると愚かな行為として認識されています。
比較することはとても楽しく、「良い・悪い」のジャッジをすることも心は楽しいと感じます。しかし「良い・悪い」という価値観は、非常に俗世的なものです。
ヨーギンのカルマは白くも黒くもない。それ以外の人のカルマは3種類(白・黒・灰色)に分かれる。(ヨガ・スートラ4章7節)
ヨガの境地は平等の境地です。俗世では良い(白)悪い(黒)に仕分けしようとしますが、私たちにとって大切なことは色分けではありません。自分自身の本性の純粋さを一途に求める人は、他人のジャッジに時間と気を取られて遠回りしません。
欲を捨てて繰り返し行うこと、それがヨガの達成の条件
ヨガ・スートラの中で、実践者にとって修習の大切さを説いた次の1節はとても有名です。
心の働きの止滅は、常修と離欲によって起こる。(ヨガ・スートラ1章12節)
修習は長期にわたって、中断なく、厳格に実践することであり、心の不動の基盤となる。(ヨガ・スートラ1章14節)
修習(アビャーサ)は、ヨガの成功(=心をコントロールすること)にとって必要なことです。
アビャーサの3つの条件
- 非常に長い期間、実践を続けること
- 中断されることなく実践されること
- 厳格な信念を持って行われること
ひたむきに信じて実践を続ける人に成功は訪れます。ヨガは他力本願ではなく、自力本願です。幸福は外から訪れるものではなく、内側にすでに存在しています。それを引き出すためには、自分自身で自分を磨かなくてはいけません。
心地良く続けられるヨガが、何かを考えましょう
ヨガは自分自身のために、“自らが実践する行為”です。ヨガクラスに参加したとしても、結局は、自分が練習をし、かつ長く継続しなければ大きな効果を得ることはできません。
長く続けるためには、内側からの楽しみや喜びを感じられないと難しいものです。そういう意味でも、外的な効果よりも内側の変化に常に意識を向けることが、大切なのです。