こんにちは。童話作家の丘紫真璃です。文学を通じてヨガを語るこのシリーズ。今回は、『青い鳥』を取り上げたいと思います。
『青い鳥』といえば、ほとんどの方が、幸せというキーワードを思い浮かべることでしょう。そのくらい、メーテルリンクの『青い鳥』は、強烈なインパクトを世界に残しました。けれども、メーテルリンクの遺した『青い鳥』の戯曲を、きちんと読み通した方は、どれほどいらっしゃるでしょうか。
私は、『青い鳥』の戯曲を読むと、主人公のチルチルとミチルが青い鳥を探す旅が、ヨガの修行者が突極の幸福サマディを探す旅と、なぜか、不思議に重なるものがあるような気がするのです。
それでは、世界的に有名なヨーロッパの戯曲『青い鳥』と、インドのヨガがどのように重なっているのか、考えていくことにしましょう。
青い鳥とは
『青い鳥』とは、1908年にモスクワの芸術座で上演して大成功を収めた童話劇です。
主人公は、チルチルとミチルという幼い兄妹。舞台は、クリスマス前夜の子ども達の寝室からはじまります。二人は、早くに寝かしつけられたのでちっとも眠れず、ベッドからこっそり起き上がり、窓の外を見ながら、おしゃべりをしているのです。
そこに、一人のおばあさんが現れます。お隣のベランゴーばあさんにそっくりな、大変腰の曲がったおばあさんですが、自分のことを妖精ベリーリウンヌと名乗り、幸せの青い鳥を探しにいってくれないかと、チルチルとミチルに頼みます。「自分の娘が病気をしていて、幸せの青い鳥をどうしても欲しがっているから」というのです。
そこでチルチルとミチルは、青い鳥を探す旅に出かけることになるのですが、メーテルリンクはこの旅の中に、スリルや冒険を散りばめ、普遍的な教えも織り込んで世界的な傑作に仕上げました。
真実が見えるダイヤモンドの帽子
『青い鳥』全編を通じて、注目したいのが、青い鳥を探す旅に出かける前、おばあさんが、チルチルにさずける帽子です。
人間てものは、ずいぶんへんてこなものさ……幼婆たちが死んでからは、まるでなんにも見えやしない。それでいて、じぶんたちが見えないってことを考えてもみやしない。でも、わたしは、しあわせと、そのかすんだ目を、よく見えるようにするものを、いつでもちゃんともってるんだ
ー 『青い鳥』第一場 きこり小屋より[1]
そう言って、おばあさんがチルチルに差し出すのは、ダイヤモンドのついた帽子です。
この帽子をかぶって、ちょいと、ダイヤをまわすんだ、こういうふうに、右から左へね、いいかね?すると、このダイヤが、だあれも知らない、頭のこぶをおすんだ、そしておまえは、はっきりと目が見えるようになるのだよ
ー 『青い鳥』第一場 きこり小屋より[1]
そこで、チルチルが、おばあさんに言われた通り、魔法の帽子をかぶり、ダイヤを右から左へ回すと、どうでしょう!チルチルとミチルの寝室は、たちまち様変わりしてしまいます。
今まで、チルチルとミチルの寝室は、とても寂しい様子でした。クリスマスの前夜だというのに、部屋の中にはクリスマスツリ-もなければ、おもちゃもなく、おいしそうなお菓子だってありません。隣のお金持ちの家の様子とは、もう全然違うのです。
ところが、ダイヤモンドを回すと、腰の曲がったおばあさんは、美しい金髪の妖精に大変身してしまいますし、壁の小石という小石が、キラキラと光を放ちはじめ、犬やネコは話せるようになり、水道の蛇口や、暖炉、パン鍋、砂糖つぼ、ランプシェードから、水の精や、火の精、パンの精、砂糖の精、光の精が次々に現れます。
かすんでいた目がはっきりとし、曇りなき眼でものを見た時、チルチルとミチルの貧しい部屋は、こんなにも、美しく楽しく変わってしまったのです。
これは、ヨガをするわたし達とも深くつながってくるエピソードだと思いませんか?
ヨガとは、「心の作用を抑制させること」。不安や心配、嘆きや嫉妬などで波立った心には、何もかもが、ゆがんだ景色しか映りません。けれども、心の曇りを取り除き、心が風のない湖のように、澄み切った時、そこにはくっきりと真実の姿が映ります。
ヨガによって、心を平安に沈めた時、真実を知ることができる……つまりヨガは、チルチルのもらった魔法の帽子そのものなのですね。
青い鳥のいた場所
チルチルは魔法の帽子をかぶり、妹のミチルと共に、青い鳥を探す旅に出かけます。
子ども達の案内人は、光の精です。ヨガの修行者を導くグルのように、光は、チルチルとミチルを導いて、青い鳥を探しにいきます。
思い出の国、夜の屋敷、幸福の御殿、未来の国……チルチル達は、様々な不思議な場所を旅するのですが、どこに行っても、青い鳥は見つかりません。見つけたと思っても、真っ黒に変わってしまったり、本当に青くはなかったりして、青い鳥探しは、困難を極めます。
これは、サマディに到達したと思っても、真には到達しきれないヨガ修行と重なるところがありますね。
しかし、子ども達の旅は決してムダというわけではありません。チルチルとミチルは、旅を通じて、世界の不思議や神秘、そして、真の幸福というものを学んでいきます。
例えば、幸福の御殿を、チルチルとミチルが訪れた時、そこには、ごちそうの並んだテーブルがあり、お腹の突き出た人たちが、まるで宴会のように、さかんに飲み食いをしています。この人達は、「金持ちのぜいたく」や「酒をのむぜいたく」、「ものを食べるぜいたく」、「何もしないぜいたく」、「必要以上に眠るぜいたく」たちだと、チルチルは教わります。
そして光は、魔法の帽子のダイヤを回すようにと、チルチルに命じます。そこで、チルチルがダイヤを右から左に回しますと……。またまた、素晴らしい変化が起きるのです!
ぜいたく達は、たちまちみっともなく、恥ずかしいような姿になり、もっと美しい真の幸福が、次々に姿を現します。「子どもの幸福」、「健康の幸福」、「よい空気の幸福」、「両親を愛する幸福」、「森の幸福」、「青空の幸福」、「日なたの幸福」、「春の幸福」……。みんな、チルチルやミチルが知っている幸福達ばかりです!
そして、さらに「美しいものを見るよろこび」、「愛する大よろこび」と続き、最後に、最も美しい「母の愛のよろこび」が続きます。「母の愛のよろこび」は、二人の子どもに向かい、「おまえはいま、天国にきていると思っているけれど、おまえとわたしがキスするところは、どこだって天国なんだよ……」と、しみじみ教えて聞かせるのです。
そうして、真の幸福を学んで旅から帰ってきたチルチルとミチルは、ダイヤモンドの帽子をかぶらなくても、自分達の家がとてもキレイだということに気がつきます。そして、父さんと母さんを大好きだと思い、幸せな気持ちでいっぱいになります。
そして、その時、自分が鳥カゴで飼っていたキジバトが、青い色をしていると気がつくのです。幸せの青い鳥は、ほかのどこでもなく、ずっとチルチルとミチルの家にいたという、この有名なラストシーンは、こうしてチルチルとミチルと共に、長い長い旅をしてみると、しみじみと胸に迫ってくるものがあります。
ヨガの旅で、青い鳥を探しにいこう
この有名なラストシーンを読んだ時、ヨガの経典『ヨガ・スートラ』の一文が頭に浮かんできます。
足るを知ることから、無上の幸福がもたらされる
ー 『ヨガ・スートラ』第2章42節より[2]
人間は誰でも幸福なりたいと望んでいます。けれども、欲望のままに欲しいものを求め続けると、際限がありません。欲しいだけのお金を積んでも、欲しいだけの物を食べても、後から後から欲望は尽きることなく続きます。
真に幸福になるためには、自分の中に目を向けなければならないと、パタンジャリは教えます。曇りなき眼を見開き、はっきりと真の世界を見つめた時、私達はもうすでに、自分達が、たくさんの幸福を手にしていることを知るのです。
暖かい家があり、家族がおり、食卓を共に囲めるということ。笑い合ったり、慰め合ったりできる友達、そして仕事があり、働くことができるということ。毎日、ここに生きている、ということ。
当たり前と思っていることは、実は当たり前ではないのです。どんなに辛い毎日の中にも、必ず、幸せがある。何もかも失ったと思っても、やっぱりそこには何かしらの幸せがある。どんな所でも、どんな状況でも幸せを見つけることができる眼を持っていたら、それは何ものにもかえがたい「無上の幸福」であるとパタンジャリは言うのです。
大切なことは、目を見開くということ。風の立たない湖のように澄み切った心で真実を見つめるということ。そこに幸福が見えてきます。そして、真の眼で見つけた幸せは決してなくなることはないし、揺らぐものでもありません。それはいつだって、私達を支えてくれ、助けてくれるものになるはずです。それこそが“足るを知る”ということでしょう。もうすでに、自分が持っている幸せを、しみじみと知るということ。それが、「サントーシャ」の意味ではないでしょうか。
「サントーシャ」を知った時、私達は初めて、ヨガの突極の目的「サマディ」への道を歩き出すことができます。チルチルの青い鳥は、ラストシーンで、彼の手から遠くに飛んでいってしまいます。彼もまた、今ここから、真の青い鳥を探す長い旅がはじまるのでしょう。そして、『青い鳥』の本を閉じた時、私達も、それぞれの真の青い鳥を探す旅がはじまるのです。
参考資料
- モーリス・メーテルリンク著、若月紫蘭訳『青い鳥』岩波少年文庫、1970年
- A・ヴィディヤーランカール著、中島巌訳『ヨーガ・スートラ パタンジャリ哲学の精髄』東方出版、2014年