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ヨガスートラに書かれた八支則は、難解なヨガ哲学の入り口として多くの人が学んでいると思います。
特に最初の2つ、ヤマとニヤマは道徳的な内容となっているため、日常生活にも活かしやすく、沢山の人が学び、親しんでいることでしょう。このヤマの1つ目に挙げられているのがアヒムサ(非暴力)です。
ヨガを志す人はアヒムサを必ず守らなくてはいけないとされています。しかし、何が暴力で、何が非暴力かの判断は、単純に見えて意外と難しいものです。そこで、今回は、ヨガ哲学を学んでいる人なら誰もが知っているアヒムサについて、さらに詳しく説いてみます。
物質的な暴力が全て“悪”とは言い切れない
暴力というと、当然人を叩く、殺すなどの直接的な行為が最初に思いつきます。他者を痛めつける行為は当然好ましくないことですが、「他者を攻撃する」ことの全てがアヒムサに反するのかというと、例外もあるのです。
例えば、ライオンが他の動物を殺すとき、それは悪いカルマ(業)を生む悪行でしょうか?漁師が漁に出て魚を取るとき、命を奪うその人は悪人でしょうか。
身分や状況による例外もある
他の命を奪う行為は一番の悪だと単純に考えてしまうと、生きるために他の命を奪う肉食動物はすべて悪になってしまいますが、現実には違いますよね。
身分、場所、時、状況に制限されない場合は、普遍的な偉大な誓戒となる。
(ヨガスートラ2章31節)
ヤマは絶対に守るべき誓いではありますが、身分や状況によって例外として認められる場合もあります。例えば、漁師であれば、自身のダルマ(義務)として行う漁は正しい行いとして認められます。しかし、それ以外の場合の殺生は絶対に行ってはいけません。
人間だけでなく、すべての生命は過去世のカルマ(業)を背負って生まれてきます。その生命にあったダルマ(義務)を果たすことが必要です。肉食動物がいなくなったら、草食動物が増えすぎて植物を食べつくし、自然界のバランスが崩れてしまいます。
クリシュナも義務としての殺生を勧めた
バガヴァット・ギーターを読んだことがある方はご存じだと思いますが、ギーターはクリシュナ神が主人公アルジュナに戦争で戦うことを説得する場面を描写しています。
殺し合いをしたくない主人公に、クリシュナは戦えと説くわけです。一見するとギーターがヨガの経典ということに違和感を抱く人も多いと思います。筆者も、その矛盾を理解するのにとても時間がかかりました。
主人公アルジュナが戦争で戦って勝利を勝ちとることは、悪とされる王族の支配を阻止するために必要な戦いでした。つまり、「何をするか」ではなく、「どうして行うか」が大切ということを、戦いというテーマをとおして説いているのです。
どんなことであれ、他者の行動を100%否定することはあってはいけません。常に自分自身で正しいと判断した行動を行うことが重要なのですね。
アヒムサを守るためにベジタリアンになる?
以前の記事で、肉を食べないことが自分自身へのアヒムサになることをご説明しました。少なくとも、集中的にヨガを学んでいる時期にはできる限り肉食を避けた方がいいと思います。
精神的な意味も大きいですし、深いヨガの練習を行うためには、肉類を消化するために必要なエネルギー消費は避けるべきでしょう。
とはいえ、肉食をする人を攻撃的に否定することは、その本質から遠ざかる行為といえます。私たちは、生きていくために必ず他の生命を頂かなくてはいけません。
例えば、イモ類や根菜を頂くと、その植物は生命を維持できません。“命をいただく”というのは、肉食であっても、ベジタリアンでも同じです。
インドにはアヒムサを厳格に極めようとする宗教、ジャイナ教があります。彼らはあらゆる生命に対する殺生を禁止するため、根菜類などの地底の植物も禁止され、葉物や茎、豆などを主食としています。
ジャイナ教徒のアヒムサに関して有名な逸話があります。ある西洋の研究者が、水の中に存在するバクテリアについてジャイナ教徒に説明したところ、彼は水の中の生命を殺さないためにと水さえ飲まない断食を行って亡くなったそうです。
そこまでのアヒムサは日本の社会生活では不可能です。私たちは、自分の中に暴力性を取り込まないための生き方について、個々の環境ごとに適切な行動を自分で判断しないといけません。
アヒムサの種類を理解しよう
非暴力と一言で言っても、自身が暴力的な行動をとらなければ良いという単純な教えではありません。
暴力その他の悪い想念を、自分が想っても、他者に想わせても、(他者の悪い想念を)容認しても、その原因が貪欲、怒り、妄想であれ、(程度が)穏和、中庸、極度であれ、(全て)無限の苦痛と無知の結果をもたらす、これが反対の想念の熟考である。
(ヨガスートラ2章34節)
何が暴力であるのかを把握しましょう。
3種類の暴力
- 自分が想ったもの
- 他者に想わせたもの
- 他人の暴力を容認したもの
自分が直接行っていないから大丈夫だというわけではありません。間接的に関わっても暴力となってしまいます。人が行う暴力を容認することも自分で行うのと同等の意味があります。ここに挙げている3種類の暴力は、行動ではなくて思考についてです。
また、暴力の原因も3通り説かれています。
- 貪欲
- 怒り
- 妄想
美味しい肉を食べたい等の欲望、あるいは怒りの感情を他者にぶつけること。また間違った認識による妄想は暴力的な行動の原因となります。
そして、暴力の強さによっても3つに分けられています。
- 穏和
- 中庸
- 極度
極度の暴力は分かりやすいのですぐに排除しましょう。穏和な暴力は気が付きにくく無意識に行ってしまいがちなのでコントロールが難しいです。穏和な暴力も避けるためには、常日頃から何が暴力で、何が非暴力かを考えなくてはいけません。
心の内側の暴力について考えてみましょう
目に見える暴力は把握がしやすいのですが、精神的な暴力は無意識な場合が多いので注意深く観察する必要があります。
アヒムサの目的は、自身の心を磨くことです。形だけのアヒムサでは足りません。人の行いの全ては、意識的、もしくは無意識の思考から発生します。行動を変えることもとても大切ですが、最も大切なのは心を変えることです。
例えば、毎日キツく注意する上司が職場にいて、疲弊しきってしまったとき「インフルエンザにかかって3日くらい休んでくれればいいのに」なんて思ったりしませんか。たとえ暴力的な行動を行っていなくても、相手を傷つけるようなイメージを抱くだけで心の中に暴力性が発生してしまいます。
相手の心への暴力も気を付けましょう。自分に意地悪をする友達がいたとしましょう。
その人が自分にしていたことが周りの友達にバレた時、「○○さんは本当はひどい人だったのだね。今までよく耐えたね!」と第三者に言われたらどう感じますか?「これで私をイジメた○○さんは、周りから嫌われる。ざまーみろ。」と思ってしまったら…。自分が暴力的な立場になってしまいます。
誰に対しても、その人が傷つくことを考えないようにすることも、アヒムサの1つ。自分の好きな相手に優しくするのは簡単ですが、自分にとって好ましくない相手にもネガティブな感情を持たない無関心を心がけます。アヒムサは自分自身の心を磨くための教えです。
思考の観察を習慣づけるには、時間と努力が必要ですが、自身の心を変えるためには、自分自身の心の働きを観察して、考察することがとても大切です。
自分自身へのアヒムサ
一方で、他人へのアヒムサばかりに気を使い過ぎることには、注意も伴います。誰に何をされても言われても反抗しないのは「良い人」という評価は得られますが、自分の想いを抑圧することになってしまいます。
他人へのアヒムサを行うときには、自分自身を犠牲にしてはいけないのです。
ヨガの神様は、自分自身の内側にいるプルシャ(真我)です。自分自身をないがしろにする行いは、神様を傷つけるのと同意だと考えましょう。自分自身を大切にすることは、もっとも大切なアヒムサです。
アヒムサを心がけて、心地よい環境を手にする
アヒムサーが確立すれば、その人の前では(全ての生類が)敵意を捨てる。
(ヨガスートラ2章35節)
自分だけが良い人になったら損をするのでは?と思う方もいるかもしれません。しかし、世の中は必ずバランスがとれるようになっています。
自分自身の心がアヒムサを確固として達成することができれば、必ず周りが変わります。他人を操作することはとても難しいですが、自分自身を変えることは可能です。必要な周囲の変化は自然に起こります。
自分自身と他者に対して、平等にアヒムサを徹底すること。実践を続けることで、不思議と自分を取り巻く環境が心地いい状態に変わっていきます。