こんにちは。童話作家の丘紫真璃です。文学を通して、ヨガを考えるこのシリーズ。今回は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を考えてみたいと思います。
宮沢賢治はあまりにも有名で、教科書などにもその作品が多く出てきますけれども、賢治という人物が立派な童話作家であると同時に、詩人であり、教師であり、科学者であり、そして、宗教家でもあることを、みなさんは知っていらっしゃいましたか?
深く知るほどに、尽きぬ興味がわいてくる人物。それが宮沢賢治なのです。そしてまた、その作品からはヨガにも通じる真理を読み解くことができます。
「銀河鉄道の夜」とは
生涯で数多くの童話と詩を残した宮沢賢治ですが、『銀河鉄道の夜』は、その中でも特に、有名な作品です。おそらく、この題名を知らない人はほとんどいないでしょう。
『銀河鉄道の夜』は、現在知られている限りでは、四回書き直されておりますが、いまだ完成していない「未完の作品」です。読んでいただければわかりますが、本書には「この間原稿五枚分なし」などの言葉が、所々に出てきます。
未完成であるにもかかわらず、これだけ有名な作品は、他に類を見ないといってよいでしょう。それだけ『銀河鉄道の夜』は、賢治独特の世界観をよく表しているといえるのです。
ジョバンニとカンパネルラ
宮沢賢治は、最愛の妹トシが亡くなった時、「永訣の朝」など多くの悲しみの詩を書き残しておりますが、その中の一つに「青森挽歌」という詩があります。これが『銀河鉄道の夜』のもとになったと言われています。
そして、そのトシを投影したのではないかと思われるのが、主人公のジョバンニの親友カンパネルラです。
主人公のジョバンニは、なかなか辛い境遇の少年です。父は不在で、母は病で床に伏しており、そのため学校が終わると活版所で働き、病気の母のための牛乳を取りにいく毎日。しかも、学校では仲間外れにされているらしく、昔からの親友カンパネルラ以外はみんな、ジョバンニをからかったり、悪口を言ったりしています。
星祭りの夜、一人孤独なジョバンニが、暗い丘で、夜空の銀河を眺めていると、銀河の果てから銀河鉄道がやってきます。中に入ると、カンパネルラも座っています。そして、銀河鉄道は、空のすすきの風にひるがえる中、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、延々と走っていきます。
不思議な銀河の世界を、カンパネルラと共に旅するのが嬉しいジョバンニは、「どこまでもどこまでも一緒に行こう」と、カンパネルラに何度も言います。
「ああ、行くよ」と、そのたんびに、カンパネルラは答えます。でも、旅の終わりにさしかかった時、カンパネルラは、ふと窓の外を見ていうのです。
「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ」
ー 『銀河鉄道の夜』九章ジョバンニの切符より[1]
カンパネルラは、その言葉を最後に忽然と消えてしまいます。
一人になったジョバンニは、やがて、銀河鉄道から、元の世界に戻ります。そして、その時、カンパネルラが亡くなったことを聞かされるのです。カンパネルラは、川でおぼれた友達を助けようとして、亡くなったのでした。銀河鉄道は、死の世界へ旅する鉄道でした。カンパネルラは、銀河の向こうに行ってしまったのです。
ジョバンニとグルの問答
作品のハイライトは、カンパネルラが消えてしまった後のシーン。カンパネルラが消えてしまい、ジョバンニが、咽喉いっぱいに泣きだした時、大きな帽子をかぶった人がどこからともなく現れます。それが誰なのかということは、作品の中に書かれておりません。
もしかしたら、それは宮沢賢治自身なのかもしれません。その神秘のベールに包まれた人とジョバンニは、まるでグルとヨガ修行者のような問答をはじめるのです。
「あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカンパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカンパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」
「ああ、みんながそう考える。けれども、いっしょに行けない。そして、みんながカンパネルラだ……だから、やっぱりおまえは、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカンパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
ー 『銀河鉄道の夜』九章ジョバンニの切符より[1]
この雲をつかむような“みんながカンパネルラ”という言葉……。これはいったい何を意味しているのでしょうか。そして、ジョバンニが目指すべき世界とはいったい何なのでしょうか。ここに、ヨガと深くつながる世界観があります。
あらゆるひとのいちばんの幸福とサマディ
ジョバンニが目指すように言われた場所。それは間違いなく、ヨガでいうサマディでしょう。ヨガ修行者の目指す突極の世界。苦悩を超越し、大いなる宇宙空間と一つに統合した究極の世界サマディ。
その世界には、もはや死も生も存在しません。そこでは、全てを超越しています。その絶対的な宇宙空間の中でだけは、亡くなったカンパネルラと共に、ジョバンニは、どこまでもどこまでも一緒に行くことができるのです。
グルのような謎の人物は、ジョバンニに、そこに一人で行けとは言いません。みんなといっしょに行くようにというのです。そして、言います。
みんながカンパネルラだ
さあ、いったい、これはまたどういうことなのでしょう。賢治自身が農学校で行った生物の授業にまでさかのぼることで、その手がかかりが見えてきそうです。
賢治は、農業学校で細胞の図を黒板に書いて、次のような説明をしたそうです。
「細胞は、わたしたちの身体をこしらえている小さな粒だと思ってください。身体というのは、その細胞の集まりなのです。もちろん、一つ一つの細胞が生きています。
君たちの身体の中でも生きています。君たちが育てている畑の稲たちの細胞も生きています。
でも、それはどうして生きているのか。
生まれたからであります。親から。では、その親はどこから生まれたか。
その親からです。そしてぐんぐんぐんぐんたどってゆくと、いつからかそれはもう人類でなくなってしまいます。進化する前の動物になってしまいます。
さらにたどれば、微生物になってしまいます。
さらにたどれば、たった一粒の蛋白質になってしまいますその長い長い歴史を細胞は覚えているのです」
ー 『教師 宮沢賢治のしごと』「再現 肥料学の授業」より[2]
宮沢賢治が解説する、長い長い歴史を覚えている細胞を、わたし達は皆、一人一人、全員持っているのです。
つまり、わたし達も、ジョバンニも、カンパネルラも、賢治も、すべての人類、すべての生き物は、みんな同じ宇宙から生まれた細胞を持っているといえるでしょう。だからこそ、みんなが、カンパネルラなのです。
これは、ヨガの教えと深くつながっています。古代からインドでは、わたし達一人一人の無意識下に宇宙空間があると考えられてきました。
だからこそ、ヨガでは、自分と向き合い、自分の内へと心を向け、瞑想により、宇宙と一つに統合しようとするのです。自分の中の宇宙と統合するということは、わたし達を取り巻く大いなる宇宙と一つに統合するということ。
そして、それこそが究極の状態“サマディ”であるのだと、ヨガでも教えます。
誰もがカンパネルラである。だからこそ、ジョバンニは、
もうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カンパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ
と、唇をかんで立ち上がるのです。
そして、それは、宮沢賢治自身の叫びそのものだと言えるでしょう。
賢治にとってのカンパネルラは、最愛の妹トシそのものです。銀河の向こうに消えたトシとほんとうにいっしょになるために。そして、だれもがみんなトシなのだから、すべてみんなの幸せのために、ほんとうの幸福を探しにいく。
賢治は、そう決心し、生涯を通じて、全身全霊で、それを追い求めた人なのです。
その姿は、偽の幸福ではなく、真の幸福を追い求めるヨガ修行者と深く重なってきます。そして、ヨガで発見した教えを口伝えに、人々に語り継いできた太古の人と同じように、賢治もまた、無意識下の世界におりてきた銀河鉄道の世界を童話にし、今のわたし達に残してくれたのではないでしょうか。
『銀河鉄道の夜』をはじめ、賢治の残した数々の詩や童話や文章を読む時、私は思います。
今、私達にできることは何だろう。ほんとうの幸福とは何なんだろう。私にとってのヨガの道とは何だろう。 賢治とジョバンニと共に、銀河鉄道を旅する時、読者もまた、ほんとうの幸福について、そして、サマディについて、考えずにはいられなくなるのです。
参考資料
- 宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』角川文庫、昭和44年
- 畑山博著『教師 宮沢賢治のしごと』小学館ライブラリー、1992年