こんにちは。丘紫真璃です。第一回目のコラムで、ムーミン童話に登場するスナフキンを取り上げましたが、今回は、ムーミンシリーズの主人公ムーミントロールとその家族を、ヨガ的な視点から見ていきたいと思います。
ムーミン童話には、不思議な力があります。自分らしく生きられずに悩んでいる人が、この作品を読んだことですくわれた……という話もあるほどです。
私達はなぜ、ムーミン童話にひかれていくのでしょう。その答えは、ムーミン童話とヨガのつながりを深く見ていくことで見つかるように思うのです。
それでは、再び、ムーミン童話の世界に入っていくことにいたしましょう。
ムーミントロールの誕生の秘密
ムーミントロールを知らない人は、ほとんどいませんよね。あの独特の形をしたユーモラスなムーミンは、作者トーベ・ヤンソンの落書きから生まれたものだといわれています。
少年時代のある時、弟のラルスとけんかをした後、くやしまぎれに木造便所の内側に、できるだけラルスの顔をみにくく描いた絵。それが転じて、ムーミントロールになったそうです!
その後、私達におなじみのムーミントロールの姿になるまでに、ずいぶん変化したそうですが、それにしても、あの愛らしいムーミントロールが、まさか、作者の弟をうんとみっともなくした絵だったなんて、想像もつきませんね。
相手のことを尊重する
主人公のムーミントロールは、さびしがり屋で、友達が大好きです。中でも一番の親友は、スナフキンでしょう。自由と孤独を愛するスナフキンを、ムーミントロールは尊敬し、心底あこがれています。
スナフキンも、ムーミンのことを、「あいつはほんとうにいいやつだ!」と思っていますが、彼は孤独を愛する自由人です。
春から夏の間は、ムーミン谷で過ごしますが、秋になると必ず、フラリと一人きりの旅に出かけます。ムーミンは、それがとっても悲しいのですが、スナフキンを決してひきとめたりはしません。
後で一人きりになってからこっそり泣いてしまうのですが、それでも、寂しいなどとは一言も言わずに、彼の旅立ちを見送るのです。
ムーミンは、こんな風にスナフキンの自由を、決して束縛しようとはしません。お互いの生き方を尊重し合う友情が二人の間には流れているのです。
ほかにも、ムーミンにはたくさんの友達がいます。スノークや、スノークのおじょうさん、ヘムレンさん、スニフ、ミイ……。
モランというムーミン童話一の化け物とさえ、ムーミンは友達になろうとします。モランは、世界で一番つめたい大きな灰色の魔物です。モランの座った地面は凍りついてしまい、そこには二度と草が生えてきません。
そんなモランを、だれもがおそれているのですが、ムーミンは、もし、自分がモランだったらと空想して、モランの孤独さを思います。
そして、モランが、カンテラの灯りが好きだとわかると、毎晩のようにカンテラを下げて、モランに会いにいくようになるのです。そうしてついに、ムーミンの友情により、モランのからだはあたたかくなります。
これらムーミンの友達との接し方に、ヨガの心を見ることができるのではないでしょうか。
アスティーヤの作る友情
さて、ここで『ヨガ・スートラ』の次の一節を、ムーミンに当てはめて考えてみたいと思います。
アスティーヤに徹したもののところには、あらゆる富が集まる。
ー 『ヨガ・スートラ』第2章37節より[1]
アスティーヤとは不盗という意味で、盗むなという意味ですが、盗んだらいけない対象は、物だけではないですよね。相手から時間や自由も奪ってはいけないという意味がふくまれてくるわけです。
それに照らし合わせてみると、ムーミンこそヨーギーであり、アスティーヤに徹している、と思わざるをえません。
ムーミンは、スナフキンの時間や自由を決して奪ったりしません。彼のことを一度だって束縛したことはないのです。だからこそ、スナフキンも、春になるとムーミントロールに会いたくなって、ムーミン谷に帰ります。
そして、世界一つめたい化け物モランとさえも、カンテラの灯りを分け合って、ともに楽しもうとしました。そのムーミンの分かち合おうとするアスティーヤの心が、つめたいモランのからだをあたためたのです。
アスティーヤに徹したムーミンのそばには、自然に友情が集まってくることがわかりますね。友情もまた、人生の中で大切な富です。お金にかえられない大切な富を、ムーミンは、アスティーヤの心で得ているといえるのではないでしょうか。
ムーミン屋敷に集まる富とは
アスティーヤに徹しているのは、ムーミントロールだけではありません。ムーミンパパと、ムーミンママもまた、見事なアスティーヤの精神を持っているのです。
たとえば、『たのしいムーミン一家』の本をめくってみますと、こんな文章があります。
この川では、ふたりは(ムーミンとスナフキン)いろんなおもしろい冒険をしたものです。いろんなあたらしい友だちをつかまえて、家へもちかえったこともあります。
ムーミントロールのおとうさんとおかあさんは、いつでもちっともおこらないで、そんなあたらしい友だちをむかえてくれました。そうして、寝室にあたらしいねどこをこしらえ、食堂のテーブルには、あたらしい葉っぱをだしてくれるのでした。
ー 『たのしいムーミン一家』第一章より[2]
ムーミンが連れて帰ってくる友だちだけではありません。真夜中にずぶぬれになって訪ねてきた偏屈な哲学者のじゃこうねずみや、おかしな言葉をしゃべる小さな小さな生き物など、どんな生き物にも、ムーミンパパとムーミンママは、いちご酒やコーヒーをふるまい、ベッドの用意をしてもてなします。
ですが、気をつかった大歓迎はせず、当たり前のように家族の一員として、仲間に入れてしまいます。今、出会ったばかりの生き物でも、まるで昔からずっと、家族だったかのように……。
だからといって、相手の自由を束縛することは決してしません。
ある日、おばさんに皮肉を言われすぎて、姿が見えなくなってしまった少女ニンニが、ムーミン屋敷にやってきた時も、「きっとこの子は、しばらくのあいだ、見えなくなっていたいと思ったのよ。気分がはれるまで、そっとしておいたほうがいいわ」と、ムーミンママは、賢く言います。
姿を見せなきゃ困るじゃないかとか、姿を見せられるようにがんばろうねとか、そんな押しつけがましいことは決して言わないのです。ムーミンママが、相手の心を優しく尊重していることがわかりますよね。
ムーミン家の人々は、ニンニをキノコとりや、りんごつみなど、家族の行事に誘い、姿が見えないからと言って、仲間外れにしたりしません。姿が見えないことを、気にしないのです。
そういうムーミン達の姿勢が、ニンニの心をやわらげ、ニンニはだんだんに、自分の姿を取り戻していくのです。
その他にもムーミン屋敷には、困ったり、不安だったり、一人ぼっちで寂しかったりする生き物たちが大勢、訪れます。つらい時、ふとムーミン屋敷を思い出し、何だかなつかしいような気持ちになって、ムーミン屋敷にやってくるのです。
ムーミン達がここまでアスティーヤに徹することができるのは、おそらく、彼ら自身が、自分らしく、精一杯生きているからなのでしょう。ムーミンは、友達と遊んだり、冒険をすることに。
ムーミンママは、みんなのお世話をすることに。ムーミンパパは大工仕事や執筆活動に、夢中になって取り組みます。
『たのしいムーミン一家』の本には、こう書いてあります。
そんなわけで、ムーミンやしきは、いつでも満員でした。そこでは、だれでもすきなことをやって、あしたのことなんか、ちっとも気にかけません。
ちょいちょい、思いがけないこまったことがおこりましたが、だれも、そんなことは気にしないのです。これは、いつだって、いいことですよね。
ー 『たのしいムーミン一家』第一章より[2]
そうです。ムーミン達は、明日のことなんてちっとも気にかけません。ちょいちょい、こまったことがあったって気にせずに、のびのびと、生きることを謳歌しています。
不思議な魔物のぼうしを拾って面白い事件に巻き込まれたり、巨大なマメルクという魚をみんなでつりあげたり、洞窟で眠ったり、ジャングルの中で遊びまわったり。自分らしく生きる喜びをお腹の底から知っているからこそ、ほかの人が自分らしく生きていくのを尊重することができるのです。
自分らしく生きるってすばらしい。ほかのどの生き物も、めいめい、力いっぱい、自分らしく生きているってすばらしい。生命ってすばらしい!そんなメッセージが、ムーミン童話の中から、はじけるように聞こえてきます。
アスティーヤに徹しているムーミン達には、さまざまな友情や、今を生きる喜びなど、決して、お金にはかえられない富が集まってきます。そして、そんなムーミン達の童話を読む私達も、お金にかえられない貴重な富を受け取ることができるのです。
参考資料
- スワミ・サッチダーナンダ著、伊藤久子訳『インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ』めるくまーる、1989年
- トーベ・ヤンソン著、山室静訳『たのしいムーミン一家』講談社、1981年
- トーベ・ヤンソン著、山室静訳『ムーミン谷の仲間たち』講談社、1979年