イシュワラ・プラニダーナで心の純粋さを高める

イシュワラ・プラニダーナで心の純粋さを高める

純粋なる存在に心をゆだねることをイシュワ・ラプラニダーナ(神への祈念)と呼びます。ヨガスートラでは、八支則の中のひとつ、ニヤマの5つ目に説かれています。

イシュワラ・プラニダーナを実践することによって、サマディ(三昧)への到達さえ叶うといわれますが、ヨガの実践として行われる神への祈念とはどのようなものなのでしょうか?

神への祈念によってエゴが消えて純粋な存在になる

どうして神に心をゆだねることによって自分自身の純粋さを磨くことができるのでしょうか?

イシュワラは「神」を意味する言葉で、プラニダーナは「祈念・信仰・帰依」を表す言葉です。

イシュワラ・プラニダーナでは、単純に神を崇めて祈れば救われるといった宗教行為を意味するのではありません。自身の純粋性を上げてサマディ(三昧)に近づくための手段のひとつです。

あるいはイシュワラ・プラニダーナ(神への祈念)によってもサマディに到達することができる。(『ヨガスートラ』1章23節)

イシュワラ・プラニダーナの実践では、自分自身の意識を完全に神に預けることを目指します。それは、自分自身への過剰な意識づけを弱めることに繋がります。

日常のエゴを手放す方法

あまりに自分自身のことばかりを考えていると、広い視野でものごとを見ることができなくなってしまい、その結果、思い込みや、執着などが強まります。

イシュワラ・プラニダーナは、この「私は」「私が」「私の」というエゴを弱めてくれる実践です。親愛する神に自分をゆだねたとき、心は自分自身のことを考えていません。それは、心の作用のひとつであるアハンカーラ(自我)を薄めて無くしていくアプローチです。

完全に自我が消えたときにはプルシャと一体になった境地が訪れます。神は純粋無垢な霊性です。その純粋さで心を満たしたとき、私たちはあらゆる執着からも解放されます。

ヨガ哲学では、私たちと神は同等の存在

ところで、イシュワラ・プラニダーナにおける神とはどのような存在なのでしょうか。それは、私たちが一般的に想像する神とは違うかもしれません。

イシュワラとは、苦悩、行為(カルマ)、行為の結果、過去の行為の潜在印象に影響されない、特別なプルシャである。(『ヨガスートラ』1章24節)

プルシャとは、私たちが誰でも内側に宿している本当の自分自身、または霊性です。限りなく純粋な存在であり、常に穏やかで至福の状態に留まっています。

ヨガ・スートラの“見るもの”と“見られるもの”との関係とは?

ヨガにおいて神と呼んでいるイシュワラも、私たちの内側に宿っているプルシャと同様の存在です。私たち個々のプルシャと唯一違うのは、イシュワラは1度もプラクリティの作り出す物質世界に汚されていないプルシャであることです。

生知を与えてくれるのはイシュワラだけ

私たちの内側に宿るプルシャは、プラクリティの発展によって生まれた物質世界(心や感覚、物質を全て含む)を見ているため、それを世の中の真実(自分自身)だと勘違いしています。

イシュワラは自分自身の存在に常に気が付いているプルシャです。プルシャの姿を認識して知っていることを生知と呼び、ヨガにおいては唯一の真実の知識です。

正知へと導いてくれる

もしも悟りを開いたグル(師)に出会うことができれば、ヨガにおける正しい教えを学ぶことが可能です。しかし、正しいグルに出会うことはとても困難だとされています。

現代では沢山の書物が手に入り、インターネットでも簡単に沢山の情報を手にすることができます。そんな時代にあっても、「この人こそが自分のグル(師)」だと思える先生に出会える人はどれくらいいるのでしょうか?

インドでは、ヨガにおいての成功を目指す人は、それを実際に経験した師から学ぶことが最も大切だとされています。多くのヨガ教典でもグルの大切さについて書かれています。

ヨガは「体験する哲学」です
ヨガは「体験する哲学」です

ヨガは「体験する哲学」なので、プルシャの状態を体験した人から学べば正しい道を授かることができます。しかし、経典などによって得られた知識は「言葉」に過ぎず、実際に体感していない人から、その言葉をとおして学んだとしても、ヨガの成功に到達することは難しいでしょう。

イシュワラには、全ての知識の無限の源泉がある。(『ヨガスートラ』1章25節)

沢山の経典を読まなくとも、真実はとてもシンプルです。真実は全て自己の内側に宿っているものであり、後から足すものではありません。大切なものは体験です。ヨガで目指すべき姿そのものであるイシュワラは、ヨガを志す全ての人にとってのグルです。

偶像崇拝ではないイシュワラへの祈念

では、具体的にイシュワラ・プラニダーナはどの様に実践したら良いのでしょうか?

彼を表す言葉は聖音オームである(『ヨガスートラ』1章27節)

それ(聖音)を、その意味を念想しながら繰り返し唱えるべきである。(『ヨガスートラ』1章28節)

イシュワラとは純粋なプルシャであり、視覚化できる偶像ではありません。ギーターのバクティ・ヨガ(信愛のヨガ)で行うような、特定の姿かたち、名前を持った神に祈ることとは違います。

姿のないイシュワラは感じることでしか認識できません。そんなプルシャを表す言葉は「オーム」だと言われています。インドでは古代から音の波動が持つエネルギーを重要視しているため、その音を繰り返し復唱することによって、自身の心を純粋な存在に結び付けることができると考えます。

オームの聖音が持つ意味

オームは全てを含む聖音
オームは全てを含む聖音

オームは全てを含む聖音とされ、ヨガスートラではイシュワラ、ギーターではブラフマンを表す言葉だとされています。

オームという1音の聖音に関して説明された『マンドゥキャ・ウパニシャッド』では、オームが含む音に関して以下のように説明しています。

A(ア):目覚めている状態、感覚、身体、楽しみ。
U(ウ):夢の状態、潜在意識、主観的な楽しみ
M(ン):熟睡の状態、無意識、無心、無享楽
無音:プルシャの状態、非顕現、未知、表現されない

『マンドゥキャ・ウパニシャッド』では、オームを4つの音に分けて解説しています。

Aは起きている状態、Uは夢を見ている状態、Mは熟睡の状態です。AUMと唱えると、外側に向いた意識から、徐々に内側の潜在意識へと移っていきます。そして、Mの後には必ず無音が起こりますが、それが真のプルシャの状態です。

AUMを唱えることによって、自分の意識をより内側の真実に近づけることができます。聖音に心がゆだねられたとき、自身の意識はプルシャに向いていると言えます。

心が上手くコントロールできないときには、オームの音によって静けさに導くことができます。

自分自身の意識の方向に気を付けてみましょう

私たちの意識は、自我意識によって作り出された「思考」に向きがちです。

「心」が働きすぎている状態だと、静けさの奥に潜む真実を見つけることができません。自分が感情的になり過ぎていないか、思考によって作られた思い込みに捕らわれていないか、それを見返すことはとても重要になります。

イシュワラ・プラニダーナでは、最も純粋な存在であるイシュワラに意識を向けることによって、自分自身への執着を手放していくアプローチです。

「神」という、自分の外にある存在に意識を向けるのがスタート地点ですが、結果的には自分自身の本当の姿に近づくことができます。

神への祈念というと、なにやら宗教的なイメージを感じるかもしれません。しかし、イシュワラ・プラニダーナの結果、自分自身が純粋な存在に戻っていくことができるのです。本当の自分を知ることができれば、心は常に穏やかな状態に留まります。

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