こんにちは、丘紫真璃です。今回は、世界じゅうの人に愛されてやまない『ピーター・パン』を取り上げたいと思います。
ディズニー映画にもなりましたし、ピーター・パンについて知らない人はいませんよね。妖精と一緒におとぎの国に住み、インディアンや海賊と戦う、永遠の子どもピーター・パン。この作品のどこに、ヨガを見ることができるのでしょうか。
さあ、みなさん。一緒にピーター・パンに会いにいきましょう。
ピーター・パンとは
ピーター・パンを書いたJ.M.バリは、イギリスの作家です。
1904年の12月に書いたおとぎ劇『ピーター・パン』で世界的に有名になりましたが、その他にもバリは、
- 『小さい白い鳥』
- 『ケンジントン公園のピーター・パン』
- 『ピーター・パンとウェンディー』
などピーター・パンが登場する物語を3つ発表しています。
この中で有名なのは『ピーター・パンとウェンディー』で、ディズニー映画のもとになったのもこの作品です。今回は、この『ピーター・パンとウェンディー』を中心に考えていきたいと思います。
ピーター・パンとウェンディー
ある夜、ウェンディー、ジョン、マイケルの三兄弟が寝ている部屋へ、ピーター・パンが飛んできます。ピーター・パンが妖精の粉をふりかけると、ウェンディー達は飛べるようになり、みんなは子ども部屋の窓から飛び出し、おとぎの国へ遊びに行きます。
おとぎの国には妖精やインディアン、人魚、海賊などが暮らしていて、ウェンディー達はピーターと共に、楽しい冒険の日々を送ります。めくるめく冒険のうちに時はどんどんたちましたが、ウェンディーは、家に残してきたお父さんやお母さんのことは、あまり心配していませんでした。
お母さん達は、いつだって自分達が飛んで帰れるように、子ども部屋の窓を開けっぱなしにしておいてくれると信じ切っていたからです。ところが、そんなウェンディーに、
ウェンディー、きみはお母さんってものを勘ちがいしている。
ー 『ピーター・パン』第11章より[1]
と、ピーター・パンは、ゆううつそうに言うのです。
むかしは、ぼくも、きみたちのように、お母さんがぼくのために、いつも窓を開いて待っていてくれると思っていた。だから、何か月も何か月も家をはなれてくらしていたんだ。
でも、とんで帰ってみると、なんと、窓は閉まっている。お母さんはすっかり、ぼくのことを忘れてしまったんだ。そして、ぼくのベッドには、べつの小さい男の子が眠っているじゃないか。
ー 『ピーター・パン』第11章より[1]
その話に心配になったウェンディー達はすぐさま家に帰ろうとしますが、海賊に捕まってしまって、家に帰るまでに大きな一波乱が巻き起こります。しかし、ピーター・パンが、フック船長と海賊どもを見事にやっつけたので、みんなは、無事、家に帰ることができたのでした。
ウェンディーのお母さんは、ウェンディー達が帰ってきたのを喜び、ピーターも自分の養子にして育てようとしました。でも、ピーターは、
はなれていてください。だれも、ぼくをとっつかまえて、おとなにすることはできないんだ。
ー 『ピーター・パン』第17章より[1]
とつっぱねて、一人でおとぎの国へ帰っていきます。
その後も、ピーター・パンは時々、ウェンディーのもとに飛んできては、ウェンディーを少しの間だけおとぎの国へ連れていきました。
でも、そのウェンディーもやがて大人になり、ピーターは迎えに来なくなりました。大人になると、いくら妖精の粉をふりかけても飛べなくなるので、ウェンディーはもう、おとぎの国に遊びにいくことはできないのです。
でも、かわりに今度は、ウェンディーの娘のジェインが、ピーター・パンと共におとぎの国へ遊びにいきます。そのジェインが大人になった時には、今度はジェインの娘のマーガレットが、マーガレットが大人になったらその娘が、と、子ども達は順ぐりに、ピーターと共におとぎの国へ飛んでゆくことになるのです。
このようにして、順ぐりにつづいてゆくのです。子どもたちがほがらかで、むじゃきで、むてっぽうであるかぎり、いつまでも。
ー 『ピーター・パン』第17章より[1]
物語は、このようにしてしめくくられます。
永遠の子どもピーター・パン
ピーター・パンは今も昔も変わらず、世界じゅうで愛され続けています。それはきっと、ピーター・パンが永遠に変わらない、子ども達の夢だからなのでしょう。世界で一番魅力的な子どもだから、国の枠を超えて、みんな、夢中になってしまうのです。
ピーター・パンは、鳥のように自由です。何にも縛られず、時も関係ありません。今、目の前の楽しいことにすぐに夢中になってしまい、過去のことはあきれるほど、どんどん忘れていきます。
ピーターは、星ととてつもなくこっけいな話でもしたのか、笑いながら、降りてくることがありました。でも、その話が何だったのか、もう忘れているのです。
かと思うと、人魚のうろこを、まだからだにくっつけたまま、あがってくることもありました。そのくせ、いったいどんなことがあったのか、はっきりと報告することができないのです。
ー 『ピーター・パン』第4章より[1]
という筋金入りの忘れっぽさです。そして、この忘れっぽい性質が、他の子どもと本当に違う大きな点といえるのです。
フックの不当なおこないに、ピーターは、めまいを覚えました。どうしたらいいのか、わからなくなってしまいました。ピーターはただ、おそろしそうに、じっとフックを見つめているだけでした。
どの子でも、はじめて不当な扱いをされた時、こんなふうに心が傷つくものです。子どもが親しげに、相手に近よっていった時、子どもは、相手から当然正当な扱いをうけるものと、期待しているのです。
不当なことをされた後でも、子どもはまた、その人を好きになることは、あるかもしれませんが、もう以前とすっかりおなじ子どもではなくなってしまうのです。最初の不当な扱いで受けた痛手から、立ちなおることは、だれにもできません。
ピーター以外のだれにも。ピーターは、何度もそんなめにあっていながら、いつも忘れてしまいます。
ー 『ピーター・パン』第8章より[1]
心が傷ついた時、だれだって、その経験で心は変わってしまいます。はじめは透き通ってクリアだった心も、傷ついた経験でどんどん悲しみや不安や疑いの色がついていってしまうのです。そうして、誰だって大人になっていくのです。でも、ピーター・パンはちがいます。
ピーター・パンは、傷ついた経験を忘れてしまいます。だからこそ、いつも透き通ってクリアなまま、心は澄み切っているのです。ピーター・パンはヨガでいうサットヴァな心の状態に近いのだといえるのではないでしょうか。
誰の心にも必ずあるサットヴァな心
ヨガでは、サットヴァな心の状態…すなわち、汚れのないピュアな心が理想的だと言われますが、まさしく、ピーター・パンの心こそ、限りなく、サットヴァな状態だと言えるでしょう。
ピーター・パンには恐れるということがありません。フック船長に襲われた時だって恐ろしいなんてみじんも思いません。ただ、よろこびで心がいっぱいになるだけです。死を待つ時だって、ピーターはほとんどこわいとは思いません。
死ぬということは、すばらしく大きな冒険だろうな。
ー 『ピーター・パン』第8章より[1]
と落ち着いて、いつもの微笑を浮かべているのです。
ピーターの心に恐れがないのは、ピーターが今、この瞬間に生きているからではないでしょうか。ピーター・パンには、過去も未来もありません。過去のことはどんどんきれいさっぱり忘れていってしまうわけですし、未来の不安だって彼にはみじんもありません。
いつも、目の前の冒険と楽しい遊びのことでいっぱいになっていて、楽しさと喜びで心の中は満たされているのです。ピーター・パンは、今、この瞬間を夢中で生きています。だからこそ、時を超えていて、ピーター・パンは永遠なのです。
大人の私達の心は悲しみや怒りや不安の色や、汚れやホコリもついていて、クリアではないかもしれません。それでも、その色がついた奥の奥には、ピーター・パンが持っているような澄み切ったほがらかな心がちゃんと隠れているはずなのです。
どんなに気難しい大人だって、一度は、ほがらかで、むじゃきで、むてっぽうな子どもだったわけですから。 その奥の奥にある澄み切ったほがらかな心を探しにいくことこそ、ヨガだといえるのではないでしょうか。
『ヨガ・スートラ』を編纂したパタンジャリは、雑念や不安を忘れ、今この瞬間に没頭して瞑想をすることで、心の奥の奥の奥にひそんでいる澄み切った心を探しにいきなさいと語っています。
J.Mバリは、兄を若くして亡くした悲しい経験から、永遠の少年ピーター・パンを生みだしたと言われています。バリが悲しい経験から生み出した永遠の少年ピーター・パンの物語を読むとき、私達は、遠い昔に忘れ去ってしまったサットヴァの心を思い出すことができるのではないかと思うのです。
参考資料
- J.M.バリ著、厨川圭子訳『ピーター・パン』岩波少年文庫、1954年