2年前に、本場インドで体験したヴィパッサナー瞑想。前回は、本当の意味で、意識を自分の内側へと向けるまでのプロセスについてお話ししました。
今回は、自分の内側に意識を向けるほどに、どのような変化が訪れたのか。その一部始終をお届けします。
通常ではありえない、ミッションが課された!?
瞑想体験4日目あたりから、外部の環境や、身体の痛みに意識がとらわれなくなっていき、さらに自分の内側へと入っていきます。そうすると、中には過去のトラウマなんかと直面する人も出てきて、泣き始める人もいました。
私は、修行好きが高じて、インドに行く前から自分自身を浄化していたので、泣くほど辛いカルマと向き合うことはなく(笑)。比較的穏やかに自分自身と対峙することができた、と言いたいところなのですが……。
じつは、みんなが瞑想に集中しているなか、私には通訳をしなければならない、というミッションが急遽くわわり、思うように瞑想ができないタイミングがあったのです。
というのは、一緒のコースを受けた人のなかに、日本語しか話せない方がいて、その方のサポートを、なぜか、ヴィパッサナーの瞑想センター初体験の私が、することになったんですね。
指名されたとき、正直、なんで私なの?と、少し不服な思いもありました。だって、東京からはるばるジャイプールまできて、ようやく日常のしがらみから解放され、静かに自分と向き合える!と思った矢先だったからっ(涙)。
そんな私の“不満”を鎮めてくれたのが、毎晩のプログラムのひとつ、ブッダの法話を聞く時間でした。
ブッダの慈悲の心に触れると、こんなことでイラついている自分って、なんて小さいのだろうと、なんだか妙に恥ずかしい気持ちになり……。
同時に、他の人が経験したような深い瞑想には至れないかもしれないけれど、また違う角度で、自分と向き合えるんじゃないかって、ポジティブな想いが芽生えてきたんです。
ヴィパッサナー瞑想は、「慈悲の瞑想」ともいわれますが、通訳というミッションをつうじて、慈悲の本質と向き合う機会をいただけたんじゃないかと思うようになりました。
そうして、自分と向き合いながら、通訳をしているうちに、今世での私の役目は“奉仕をする”こと、というのが腑に落ちてきたのです。
そもそも私のように初めてヴィパッサナー瞑想を体験する人が、日本語のサポートをするなんて、ありえないらしく、同じコースを体験している仲間もみんな驚いていました。そう考えると、自分の本質に気づくための必然だったとしか思えないですよね。
あのとき、他の参加者とは違って、2日に一度くらいは話していたけれど、本当に素晴らしい体験だったなと、いまもなお、しみじみと感じています。
感覚が鋭敏になり、神秘的な体験も
10日間のプログラムを終えた直後は、本当に五感がシャープになっていって、静電気の音の種類を聞き分けられるようになったり、静電気の火花が散るような光が肉眼で見えたり。壁の粒子が見えるような感覚にも包まれました。
プログラムを受けている間は、いわゆる肉体的なフィルターが外れている状態になり、かつ、あの独特な場が、そうした非日常の超感覚をもたらしてくれたのかもしれません。帰国後、すぐに見えなくなりましたから(笑)。
考えてみると、私たちの日常は、電磁波が飛び交い、あらゆる音にあふれています。常に、五感を酷使する環境になっていますよね。五感を酷使する環境では、意識は自然と外側に向いてしまうものです。
一方、瞑想センターでは、普段酷使している視覚や聴覚、また味覚も一時的に遮断。そうして、強制的に意識を内側に向ける環境をつくっているわけです。そうした環境では、普段目には見えないものが見えてくる、というのも不思議ではないかもしれません。
長い人生からみると、10日なんて短い時間ですが、魂の目的、役割が腑に落ちるという、深い気づきに満ちた濃厚なひとときになりました。