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自分にとって何が好ましいか、好ましくないかを知ることは、人生を快適に過ごすうえでとても大切なことです。何を選択すれば自らが心地よく感じるのかをきちんと理解できていると、自分にとっての幸せをちゃんと受け取ることができます。
ところで、普段「好き・嫌い」と思っているものは、本当に正しい認識なのでしょうか?今回は、この「好き・嫌い」の感情を通して、幸せについて考えてみたいと思います。
ラーガとドヴェーシャ(快楽と憎悪)を考える
私たちの感情は対象物に対して「好き」か「嫌い」か、を決定し、好きと感じたものは「良い」、嫌いなものは「悪い」とジャッジしがちです。
ヨガの教典ではラーガとドヴェーシャという言葉を使って、この「好き・嫌い」の感情について次のように説明しています。
- ラーガ:快楽・貪愛・執着・愛執
- ドヴェーシャ:嫌悪・反感・憎悪
ラーガとドヴェーシャは、個人の嗜好によって左右されます。本質的にそれが優れているか、劣っているか、とは関係ありません。
たとえば、ある同じ映画を見た場合、ある人は「心底感動し、人生まで変わった」と感じるかもしれませんが、別の人は「お涙頂戴の安っぽい映画だった」と嫌悪感を抱くかもしれません。
この差は、どこにあるのか。より深く、ラーガとドヴェーシャについて考えてみましょう。
ラーガ=幸せの条件ではない
ラーガは「楽しみ」や「好き」と解釈することもできますが、ヨガの哲学書では貪愛や執着と訳されることが多い言葉です。ラーガという感情は、必ずある対象に対して生まれます。つまり、対象を得られたときにのみ感じることができる、一時的な高揚感なのです。
このラーガは、感覚器官によって生み出されます。「美味しい」「心地いい音」「快適な触り心地」「美しい色」「良い香り」……など。しかし、これら人間の感覚器官は不確実なものでもあるのです。
食事ひとつとっても、気分の良い時には美味しいと感じられていたものが、ストレスが溜まっている時には、美味しいと全く感じられないこともありますよね。ラーガは、その時々の感情に影響を受けやすいということです。また、嗜好は知らないうちに変化していることもありますから、好きと感じていたものが、ずっと自分の心を満たしてくれるとは限りません。
むしろ、「私はこれが好き!」という、思い込みが、「自分はこれがないと幸せになれない」という条件をわざわざ作り、かえって自らを窮屈にしてしまうことも……。あまり自分の「好き」という感情に囚われすぎないようにしましょう。
ドヴェーシャは過去の記憶から起こる
一方、私たちが対象を見て「嫌い」と思うときには、過去の記憶と深く関係があると考えられています。
ドヴェーシャとは苦にとらわれた感情である(『ヨガスートラ』2章8節)
インド哲学では、全ての事柄には原因があると考えていますから、もちろん嫌悪感を抱いてしまう原因もあるわけです。それが、過去の経験で得た苦痛が関係しているというのが、インド哲学におけるとらえかたになります。
例えば、ゆっくり行動する人を見てイライラしてしまう場合、自分が子どもの時に両親から「早くしなさい!」と怒られた記憶があり、「のろま=悪い」と潜在意識に記憶されてしまっているからかもしれません。
「ラーガ」と「ドヴェーシャ」は、コインの表と裏のようなもので、常に一対になっています。すごく大好きだったパートナーが、結婚数年後には、憎くしみを感じる相手になってしまったという人もいます。第一印象は「本当に嫌なやつ」と感じていたのに、一度話してみたら意気投合し、親友になるケースもあるでしょう。
ヨガスートラでは、ラーガもドヴェーシャも無知から生まれるクレーシャ(煩悩)だと説いています。無知がゆえに、「これが好き、これは嫌い」と決めつけ、そこに囚われてしまう。その結果、苦しみを生んでしまうのです。
ラーガは執着をともなう愛情
さて、再び「ラーガ」に話を戻しましょう。ラーガはそれ自体が苦を生みだしてしまう場合もあり、そのことについても見ていきたいと思います。
ラーガとは快楽にとらわれた感情である。(『ヨガスートラ』2章7節)
「楽しかった」という記憶は、もう一度それを体験したいという渇望感を生みます。その渇望感は愛着を生みます。自分が好きだと思った対象への愛着はとても大きな執着心です。
「もっともっと欲しい」と欲が大きくなったり、好きな対象を失った時に感じる喪失感が大きな悲しみを生みだします。
例えば、恋人に対する愛着は、本当の愛とは少し違います。そこには、「相手から喜びを得たい」と思うエゴイズム(自我意識)が働いています。愛着という感情は、自分がどれだけ与えられるかによって幸せを測ります。「相手を独占したい」「自分の愛と同等か、それ以上に愛されたい」という感情を生みだしてしまう。それらの感情は相手にとって重荷になってしまい、場合によっては争いの原因になってしまいますね。
そう考えると、人間関係の問題も、自分自身の中の愛着によって作り出されてしまっていることが分かります。自分にとって好ましい対象であっても、執着や依存に繋がらないように注意しましょう。人を愛することと、執着することは全く別の感情であると理解できれば、愛着の作り出す苦しみを回避することができます。
快楽の結果の依存
ラーガの生み出す愛着が大きくなると、依存症などの危険性が出てきます。アルコールに対する依存などはとても分かりやすい例です。
お酒を飲んでいるときに感じる、高揚感・開放感には中毒性があります。そのため、最初は楽しくお酒を嗜んでいただけだったのに、気づいたら、飲まずにはいられないといった精神状態に陥ってしまうことがあるのです。人の心は、一度大きな快楽を得てしまうと、後になって同じ大きさの喪失感を得やすくなります。結果、飲めない時間は苦しく、お酒を飲む時にはもっと強いものを……と、さらに依存が強くなってしまうのです。
このような依存は、お酒だけではなく、あらゆる対象に起こります。ヨガのクラスに対しても、同様の反応が起こり得ます。
たとえば、大好きなヨガのクラスに、病気や災害などでいけなかった場合、フラットな心理状態であれば、残念だなと感じる程度ですが、クラスへの依存心が強い場合、生き甲斐が失われたような強い喪失感を抱いてしまうこともあるでしょう。
あるいは、アーサナに対して大きな快楽を感じている人の場合、もっと難易度の高いものを、とストイックに求め続けることになります。
たとえ自分にとって好ましいと感じた選択であっても、そこに依存してしまうと本末転倒です。柔軟な心で向き合い、独立した自分を目指しましょう。
ラーガとドヴェーシャに左右されない心
「好き・嫌い」という感情は、無意識に表れるものです。それを無理に否定する必要はありません。しかし、好き嫌いの感情に必要以上にとらわれないように気を付けましょう。
感覚には対象に対してのラーガとドヴェーシャの原理が含まれている。人はその2つにに支配されてはいけない。なぜならば、それらは個の気づきを妨げるものであるから。(『バガヴァット・ギーター』3章34節)
自分自身が感じている好き嫌いの感情と、ものごとの本質は別のものと知りましょう。好き嫌いは、対象に対する執着によって生み出されます。いつも自分の外の世界にばかり目が向いていると、あらゆる対象からの影響を受けて、心が激しく動揺させられます。
本当の幸せは、一時的な高揚感ではなくて、穏やかな平穏さです。自分自身が内側から湧いてくる幸福感に気が付くことができれば、外の対象に対するラーガやドヴェーシャといった感情に惑わされることはありません。
まずは、じっくりと内側と静観することから始めましょう。心が冷静になると、「どうしてもこれがないとダメ!」と思っていた大好きなモノへの執着が弱まるかもしれないし、大っ嫌いだった人の良い部分が見えてくるかもしれません。
感情に負けない心の強さをヨガで手に入れる
すでにご説明した通り、ラーガとドヴェーシャは感覚器官から生まれます。バガヴァット・ギーターの中でクリシュナは、自身の感覚器官に負けない自分になるようにと説きます。
よってアルジュナよ、まず最初に感覚をコントロールすることによって悪(欲望)を滅しよ。それは知性と実践知を破壊するものだから。(『バガヴァット・ギーター』3章41節)
欲望は感覚器官によって生まれます。その欲望によって、自分の本質や幸福が見えなくなってしまいます。
ヨガの練習では、外側に向いた意識を内側に向けることにより、感覚器官をコントロールします。よって、ヨガの実践を積むことで自然と「好き嫌い」という感情に囚われにくくなります。それは本当の穏やかな幸せを感じることにつながります。