こんにちは、丘紫真璃です。今回は、J.Dサリンジャーの『フラニーとゾーイー』を取り上げてみたいと思います。
サリンジャーといえば、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』が有名ですよね。『フラニーとゾーイー』は、どちらかといえば、マイナーな作品かもしれません。
もちろん、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も、世界の文学史に残る名作で多くの方に読んでいただきたい一冊なのですが、ヨギーにとってはむしろ『フラニーとゾーイー』の方が興味深く読めるのではないでしょうか。
では早速、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を開いてみましょう。
フラニーとゾーイーとは
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で、世界的に一躍有名になったサリンジャーは、1955年に『フラニー』という短編小説を、1957年に『ゾ-イー』という短編小説を、それぞれ、『サ・ニューヨーカー』という雑誌で発表します。それを一つにまとめたものが、『フラニーとゾーイー』です。
ところで、『フラニー』の主人公は、女子大生のフラニー・グラース。『ゾーイー』の主人公は、若きイケメン俳優ゾーイー・グラースですが、この二人は兄妹です。フラニーとゾーイーの上には他にも5人の兄弟がいて、サリンジャーは、グラース兄弟をそれぞれ主人公にした短編小説を、別々に発表しています。これらグラース兄弟の短編は『グラース・サーガ』と呼ばれるのですが、『フラニー』も『ゾーイー』も、『グラース・サ-ガ』に含まれる短編に当たります。
エゴに苦しめられるフラニーと助けようとする兄のゾーイー
短編小説『フラニー』は、女子大生のフラニーとボーイフレンドのレーンのレストランでのデートの様子が舞台となります。二人とも楽しみにしていた週末デートのはずなのですが、二人の会話はどうもすれ違いを見せます。フラニーは、大学いっぱいにはびこるスノッブとエゴに苦しめられており、
エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい。
人目に立つようなことをなんかやりたい、人から興味を持たれるような人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ。
ー 『フラニーとゾーイー』フラニーより[1]
というのですが、エリート学生であるレーンには、フラニーの苦悩は理解できません。フラニーは、演劇に情熱を傾けていたのですが、それさえも、
張り合うのが怖いんじゃないわ。その反対よ。わからない、それが? むしろ張り合いそうなのよ。それが怖いんだわ。それが演劇部をよした理由なの。
わたしがすごくみんなから認めてもらいたがるような人間だからって、ほめてもらうのが好きだし、みんなにちやほやされるのが好きだからって、だからかまわないってことにはならないわ。
そこが恥ずかしいの。完全な無名人になる勇気がないのがわたし、いやんなった。
ー 『フラニーとゾーイー』フラニーより[1]
という理由でやめてしまいます。
エゴに苦しむフラニーとそれを理解できないレーンとの会話のズレはどんどんひどくなり、しまいにはフラニーが、真っ青になって気を失ってしまうところで、この短編は幕を閉じます。
そして、フラニーのデートから二日たった月曜日の朝から『ゾーイー』は、はじまります。あのデート以来、すっかり神経衰弱のようになったフラニーは、実家に帰ってきて、居間の寝椅子で寝込んでしまうのです。ほとんど物も食べずに苦悩し続けるフラニーを心配する母のベシーと兄のゾーイーの会話で、この物語は幕を開けます。そして、何とかフラニーを立ち直らせようと、ゾーイーが、全身全霊を傾けて様々な説得を行うのが、『ゾーイー』の主軸となります。
絶えず祈る
フラニーは、いつもバッグに『巡礼の道』という小さな若草色の布製の本を持ち歩いているのですが、これが、この2編の小説の大きなポイントになってきます。この本の中には「イエスの祈りを絶えず祈れ」という教えが語られています。
ヨガにも同じ教えがありますよね。マントラを繰り返し唱える瞑想法が実際にあります。フラニー自身も、
本当に深い、絶対に本物の宗教的な悟りに達した人たちが、口をそろえて言うんでしょう。神の名を絶えず繰り返していれば、何かが起こるって。
(省略)インドでは「オーム」に思いをひそめよっていうけど、これも実は同じことなのよ。
ー 『フラニーとゾーイー』フラニーより[1]
と語っていますが、とにかく、苦悩するフラニーは、イエスの祈りを絶えず祈ることにするのです。
ところが、そんな妹のフラニーのイエスの祈りの唱え方が気にいらないと、兄のゾーイーはハッキリと言います。物質的な宝を欲しがる人間と、精神的な宝を欲しがる人間に相違なんて全然ないといい、イエスの祈りの修行をして何かを掴もうとしていること自体、エゴなのではないかと言って、フラニーを怒らせます。
あなたの言っていることなんか、全部わたしには分かっているのよ!
あなたは、わたしが「イエスの祈り」から何かを得ようとしている…だからつまり、わたしもほかの人と同じように、あなたの言葉で言えば「欲張り」じゃないか。ほしがるものが、黒貂のコートだって、有名になることだって、へんな威信に輝くことだって、と、そう言うけど、そんなこと、みんなわたし知ってんのよ!
そここそ、わたしがいちばん悩んでいる問題じゃありませんか。
ー 『フラニーとゾーイー』ゾーイーより[1]
と、泣いてしまいます。
ヨギーならば、フラニーと同じような悩みを持ったことのある人はいるのではないでしょうか。欲を捨てるようにとヨガの教えにあるのに、そもそも、ヨガをして心の平安を得たいと望むことがすでに欲なのではないか。
そんな風に悩む人も、きっといることでしょう。一度はフラニーをさんざん追いつめて怒らせてしまったゾーイーですが、彼はフラニーを怒らせたかったわけではありません。フラニーを何とか立ち直らせたいと思っているだけなのです。
ゾーイーは、フラニーを追いつめてしまった後、長男のシーモアが昔使っていた部屋にひきこもり、全身全霊で、フラニーを救う言葉を探します。
全ては太っちょのオバサマ
フラニーとゾーイーの今は亡き兄シーモアは、弟と妹達にとってのグルのような存在です。そんなシーモアの部屋で頭を抱えて悩んだゾーイーは、シーモアの部屋についている電話機を使って、今度は、フラニーにこんな風に話します。
きみは人生のどこかで、単なる俳優というだけでなく、すぐれた俳優になりたいという熱望を持った。
ところが今、そいつに閉口してる。自分の欲望の結果を見すてるわけにいかないだろう。因果応報だよ、因果応報。
きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいなら…神の女優になれよ、なりたいなら。これ以上、きれいなことってあるかね?
ー 『フラニーとゾーイー』ゾーイーより[1]
この考えは、カルマヨガの教えと同じですね。全ての行動を自分の欲のためではなく、神のためにしろという、カルマヨガの教えとつながった考えです。
さらに、ゾーイーは、子どもの頃、ラジオ番組に出演しようとした晩の思い出を語り出します。兄のシーモアが、ゾーイーに靴を磨いていくように言ったのですが、ゾーイーはそれをものすごく嫌がったのです。ラジオ番組に出るんだから靴なんて誰も見ないのに、何のために磨くのかとシーモアに食ってかかったのです。すると、その時シーモアはこう言ったといいます。
「太っちょのオバサマのために磨いてゆけ」
こう言われた瞬間、ゾーイーの頭に、なぜか、実に鮮やかに太っちょのオバサマの姿が浮かんだと言います。そして、その時以来、ゾーイーはいつも、太っちょのオバサマのために靴を磨くことにしたのです。
フラニーもまた子どもの頃、シーモアに、太っちょのオバサマのために面白くやれと言われた事を懐かしそうに思いだします。そんなフラニーに、ゾーイーはおもむろに、この短編を通して一番肝心なあることを語るのです。
ぼくはね、俳優がどこで芝居をしようと、かまわんのだ。夏の巡回劇団でもいいし、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼けて、流行の粋をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。
しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう。そこにはね、シーモアの「太っちょのオバサマ」でない人間は一人もおらんのだ。(省略)それがきみには分からんかね?それから…よく聞いてくれよ…。
この「太っちょのオバサマ」というのは本当は誰なのか、そいつは君に分からんだろうか?ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ。
ー 『フラニーとゾーイー』ゾーイーより[1]
全ての人はキリストなんだと、ゾーイーは言うのです。全ての人は神なのです。この神というものは、ヨガでいうところの「アートマン」と同じなのではないかと私には思えます。
ヨガでも、全ての人間の中にアートマンはあると教えられます。それは真理であり、それのみで光り輝くものであり、永遠のものです。どんなに俗っぽくて、利己的で、エゴの塊のように見える人の中にも、アートマンはちゃんとあるのです。
全ての人の中に神様がいるのです。ですから、神のために芝居をしろということは、全ての人のために芝居をしろということと同じなのです。そこにいる全ての観客のために全身全霊で最高の力を発揮して芝居をすること…それが、フラニーにできるたった一つの宗教的なことなんだと、ゾ-イーは語ったのです。
自我を忘れ、誰かのために…神のために、最高の力を出し切ることは、最高に宗教的なことなんだということが、この『フラニーとゾーイー』を通して、力強く伝わってきます。
サリンジャーは、フラニーのように人一倍、心のキレイさというものを求めていた人だったのではないかと、私はそう思うのです。きっと、サリンジャー自身、フラニーのように、世の中の、そして自分自身の欲深さ、エゴ、欺瞞、そんなものに苦しんでいたのでしょう。
そんなサリンジャーが、ヨガや東洋哲学に深く傾倒していたのもうなずける話です。
『フラニーとゾーイー』を読んでいると、ヨガの教えと共通する内容があちこちに見られます。そういう意味でもヨガをする私達にも面白い作品ですし、ヨガを知らなくても、サリンジャーのユーモアあふれる饒舌な語り口の魔法に乗せられて、ついつい読んでしまう一冊です。
この機会にぜひ、本を開いて、サリンジャー的アメリカンヨガワールドを堪能してみてください。
参考資料
- J.Dサリンジャー著、野崎孝訳『フラニーとゾーイー』新潮文庫、平成3年