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ヨガによって日常と違う体験をすると、まるでその体験だけが真実であるかのように思えてきて、日常生活の面倒な出来事から目を背けてしまうことがあります。とくに、インドにヨガをしに来る人の中には、現実逃避に傾いてしまい、元の生活に戻れなくなってしまう人がいます。
しかし、本当に大切なことは、ヨガで体験したことを、どのように現実の生活に活かしていくのかです。今回は、『ヨガスートラ』の論理展開の元になったサーンキャ哲学の考え方をもとに、現実の大切さについて見ていきたいと思います。
宇宙の真理が分かったヨガ修業僧の話
アシュラム(住み込みのヨガの修業道場)でヨガの実践を行っていた、ある生徒の話です。ある日、スワミジ(アシュラムの師)が一人の生徒を呼び、マントラを授け、ジャパ(マントラを繰り返し唱える実践)を行うようにと指導しました。
とても真面目な、その生徒は、尊敬するスワミジからマントラを授かったことが嬉しく、小部屋に行くと三日三晩ジャパ修業を、素直に行いました。その3日間、食事もせず、眠らずにジャパ修業を行ったそうです。
修業を終えて小部屋から出てきた生徒は、興奮した様子でスワミジのところに行って話しました。
スワミジは尋ねました。
それを聞いたスワミジは、「それは良かった」と言い、生徒にお金を渡して夕食の野菜を買いに行くように頼みました。
生徒は、スワミジから職務を与えられたことが嬉しくて、踊るように買い物に出かけました。道中、すれ違う人や犬を見てはブラフマンだと思い、花を見てはブラフマンだと思い、道を歩けば石もブラフマンだと思いました。
世界のあらゆるものがブラフマンであり、それらと一体であると感じることに幸せを感じました。
ふと気が付くと、人々が慌てた様子で自分と反対方向に走っていることに気が付きました。すれ違った一人の男性が修行僧に話しかけました。
しかし、悟りを得た修行僧は考えました。象だってブラフマンである。
そうして、男性の忠告を聞かずに野菜マーケットに行くと、暴れる象がいました。修行僧は、「あ、あの象もブラフマンだ」と思いましたが、象は容赦なく修行僧を攻撃して、修行僧は足を負傷してしまいました。
修業僧は町の人に見つけられて病院に連れていかれました。
しばらくするとアシュラムの他の修業僧たちが来て言いました。
そして、またしばらくするとスワミジがやってきました。修行僧は、何があったのかを全てスワミジに話しました。するとスワミジは言いました。
特別な何かを悟ったような気持ちになると、急に冷静さを失ってしまいます。ヨガは盲目になることではありません。
スピリチュアルな経験は現実を隠すものではない
どれだけ深い瞑想を行って、スピリチュアルな経験を得たとしても、現実世界で抱えている問題が急になくなるわけではありません。
たとえ高位の神霊からの誘いを受けても、愛着と誇りを抱かないことが大切である。さもないと、再び不幸なことが起きるから。(『ヨガ・スートラ』3章51節)
ヨガの実践は真実を知ることによって、あらゆる苦悩の原因となる無知(アヴィディア―)を弱めます。客観的な正しい視野を磨くことによって、ヨガマットの外の世界でも真実を見ることができるようになります。
特別な経験をしたとしても、決して今ある問題や現実から逃避したり、一時的に視野を逸らすための道具としてヨガをとらえないようにしましょう。
プルシャとプラクリティは両方とも存在する
同じインド哲学でも、ヴェーダンタ学派では、世の中のものは全てマーヤー(幻)だと表現しています。しかし、サーンキャ哲学を土台にしたヨガ哲学では、プラクリティの作り出す物質世界も全て現実だと説きます。
サーンキャ哲学によると、世界は2つの原理を元に作られました。
自分の本質はプルシャと呼ばれる霊魂、何も足さなくても純粋て尊い存在です。プルシャの唯一の機能は見ることなので、『ヨガ・スートラ』では「見るもの」として表現されています。
プルシャ以外の物質的な世界のあらゆるものはプラクリティと呼ばれる物質原理で作られています。それは、人の思考や感覚、火・水・土・空・風から作られる、世界に存在するあらゆる物質含んでいます。プラクリティは、プルシャと対比して「見られるもの」と呼ばれています。
見るものと見られるものは、どちらも存在しています。ヨガの実践によって、サマディに到達したからといって、その瞬間から世界が消えるわけではないのです。
ヨガによって変えることができるのは、目の前の現実ではなくて、自身の思考です。何かを排除するのではなくて、全てを受け入れる心を身に着けるものです。
ヨガはリアルを体感する時間
ヨガの実践は、現実を観察して感じることがとても大切です。アーサナの練習を行えば、自分自身の身体に向き合うことになります。
身体のどの部分が固くなっていて、痛みを感じ、苦手な動きや、弱い部分はどこなのかを観察します。最初は、今まで見て見ぬふりをしていた自分自身に向き合うことで苦痛を伴うかもしれません。得意な部分だけではなくて、苦手な部分も知ってしまうからです。
しかし、嫌な部分も含めた自分を知るこそことが、向上に繋がります。例えば……
- 後屈のポーズが苦手だと自覚する
- 後屈をするとき、どの部分につまりを感じているのかを観察する
- 太ももの前側が固いのだと気が付く
- その部分を緩めるストレッチを取り入れる
- 腰に負担をかけなくても後屈ができるようになる
このように、まずは自分自身の苦手な部分も受け入れて、客観的に観察することが問題の解決になります。もしも、しっかり観察することなく、度胸だけで練習してしまっていたら、腰に負担をかけて怪我の原因になってしまいますね。
アーサナを通して、自分の苦手な部分との向き合い方が分かると、次は心とも向き合えるようになります。
いつも、同じような問題に直面してしまうのであれば、その理由をゆっくりと観察しましょう。自分の中で、嫌悪感を抱いてしまう対象には、どうして自分が不快に感じてしまうのかと原因を探します。
心の苦手意識に向き合うことは、アーサナに比べたら時間がかかってしまうかもしれませんが、ヨガの実践を続けていくことで必ず叶います。
カルマは解消するべきもの
インド哲学ではカルマ(行)の概念があります。何らかの行動により原因ができると、必ず結果が起こります。生きている人は必ず行動をし続けているため、その行動により生まれた要因を解消しない限り、カルマからは解消されないと考えられています。
カルマから解放されるためには、結果への執着を手放し、新しい要因を生みださない行動を取らなくてはいけません。
すでに目的を達成した真我に対しては、見られるものは消滅する。がしかし、見られるものは、他の真我との共有財であるから、他のいまだ解脱していない真我がある限り、無くなりはしない。(『ヨガ・スートラ』2章22節)
瞑想によってプラクリティの作り出す物質世界から自由になったとしても、世界が消えるわけではありません。自分の持って生まれた肉体が最後の時まで生を全うしなくてはいけません。
もしも、精神的に悟ったと思い、そこで生を断ったとしても、自分自身が解消するべきカルマを終えていない場合には、魂がまた同じカルマを背負って生まれてきてしまうと考えられています。
ヨガの実践を日常に活かすようにしましょう
先に述べたように、ヨガの実践はマットの上だけで行うものではなく、そこで得た知恵を人生に活かすことで意味をもちます。
もし、今大きな苦痛を抱いているのであれば、急に直視しようと急ぐ必要はありません。ヨガの実践を通して、少しずつ「今」を受け入れる練習をしましょう。マットの上で感じ取ったことを日常に活かすことによって、いつでも「今」に充実感を感じられるようになります。