みなさん、こんにちは!丘紫真璃です。今回は、マーク・トウェインの名作『ハックルベリー・フィンの冒険』を取り上げてみたいと思います。
日本では、マーク・トウェインの作品の中では、『トム・ソーヤーの冒険』の方が、おなじみかもしれません。『ハックルベリー・フィンの冒険』は、トム・ソーヤーの物語の続きにあたるお話です。『トム・ソーヤーの冒険』にも出てくる宿無し少年ハックが主人公で、黒人奴隷のジムと共にハラハラドキドキの逃亡劇を繰り広げるのです。
アメリカ文学の古典とも呼ばれている『ハックルベリー・フィンの冒険』ですが、この名作がヨガと、どんな共通点があるのでしょう。
……と、こう書くと、説教のタネにするのはやめてくれ~と、マーク・トウェインに叱られそうですが、なるべく、説教くさくならないように、みなさんを、ハックの生きる1830年代のアメリカに、ご案内したいと思います。
ハックルベリー・フィンの冒険とは
『ハックルベリー・フィンの冒険』は、1885年にアメリカの有名作家マーク・トウェインによって発表された小説です。この物語は、宿無し少年ハックによる一人称の語りで書かれており、まるで、ハックのおしゃべりを聞くようにして読むことができるのですが、これが口語体で書かれた最初の小説だと言われています。一人称の語りは、今や、当たり前になっていますが、そのはじまりが、この物語だったのですね。
アメリカ作家のヘミングウェイは、こんなことを言っています。
あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する。…すべてのアメリカ作家が、この作品に由来する。この作品以前に、アメリカ文学とアメリカの作家は存在しなかった。この作品以降に、これに匹敵する作品は存在しない
もはや、アメリカ文学になくてはならない歴史的な古典となっているのが、ハックの物語だといえるでしょう。
川を下って逃げる宿無しハック
『ハックルベリー・フィンの冒険』を読むために、最も重要なポイントは、歴史的背景といえるでしょう。
先ほども書きましたが、この作品は、1830年代~40年代のアメリカが舞台です。当時は、まだ南北戦争前で、奴隷制度が廃止されていませんでした。黒人奴隷に賛成派と反対派がはげしく対立しており、ほとんどが、北側の州は奴隷制度に反対する自由州。南側の州は奴隷制度に賛成する奴隷州となっていました。ハック達の暮していたミズーリ州は、奴隷州に当たります。
ですから、ハックの暮す町には当たり前のように黒人奴隷がいたわけで、それを疑問に思う人はあまりいなかったのです。
そんな環境の中を生きるハックは、『トム・ソーヤーの冒険』にも登場する宿無しの少年です。父親はアルコール中毒で、母親は不明。ハックは、砂糖樽を寝床にして、一人気ままに暮らしていたのですが、友達のトム・ソーヤーと共に泥棒が隠した金貨を見つけたことをきっかけに、お金持ちになります。そして、ダグラスさんという後家さんとミス・ワトソンという女性に引き取られ、マトモな人間になるための教育をされるのです。
ところが、ハックは新しいきれいな服を着させられたり、きちんとテーブルについて夕飯を食べることや、ベッドで寝ること、学校へ行くことなどを、死ぬほど窮屈に思い、もとの宿無しの生活に帰りたいと願います。
そんな中、ずっと行方知らずだったハックの父親が、ハックの暮す後家さんの家にやってきます。ハックの父は、ハックがお金持ちになったことを聞きつけ、ハックにお金をたかりにやってきたのです。ハックの教育に悪いということで、後家さんは、ハックの父を追い払おうとしますが、それに怒ったハックの父は、ハックを後家さんの家から強引に連れ去り、川沿いの丸太小屋の中に閉じ込めてしまいます。
ハックは、閉じ込められた丸太小屋から脱出し、後家さんからも、父親からも自由になるために、自らの死を偽装します。そして、筏(いかだ)で川をこぎくだって逃亡するのです。
その逃亡の途中に、後家さんの家にいた黒人奴隷のジムと出会います。ジムは、後家さん達が、彼を南部に売ろうとしている計画を立ち聞きして逃げ出してきたのでした。ハックは、ジムを筏に乗せてやり、自由州を目指して、二人で逃亡することになります。
その逃亡の筏暮らしの間に、ハックとジムは、様々な冒険に巻き込まれていくのです…。
ハックと黒んぼジム
黒人奴隷の逃亡を助けるということは、当時、法律違反とされていることでした。また、宗教上のタブーでもあったのです。そんな時代に生きていたハックでしたので、黒人奴隷ジムの逃亡を助けているという事に、ハックは、幾度か苦悩します。
それでも、さまざまなピンチを、ジムと助け合いながら乗り超えていくうちに、ジムとハックの間には、強い絆が生まれます。
いやらしいペテン師にだまされて、ジムが売り飛ばされてしまった時には、ハックは、思わず泣いてしまいます。そして、これからどうしたらいいのか、頭がズキズキするまで考えて、考えて、考えぬきます。
ところが、そうして考えるうちに、そもそも、黒人奴隷の逃亡を助けてきた自分はとてもいけないことをしてきたのかもしれないと思うようになるのです。ハックは、黒人奴隷の逃亡を助けたら地獄に落ちると言われていることを思い出し、おそろしさで震えあがり、神様にお許しくださいと、お祈りをしようとまでします。ところが、
けど、お祈りの言葉が出てこようとしない。どうして、出てこないのか? (略)おれは、自分の口には、こう言わせようとしてた、……おれは正しいことをします、きれいなことをします、そして、あの黒んぼの持ち主に手紙を書いて、あれがどこにいるかを知らせます、って。
でも、心の奥深くでは、おれは、そんなの嘘だって知ってた。……そして、神さまも、それを知ってたんだ。嘘なんぞ、お祈りすることはできない
ー 『ハックルベリー・フィンの冒険』第31章[1]
お祈りができなかったハックは、今度は、こんな風に考え出します。
大川をくだってきた、おれたちの旅のことを考えはじめた。そのあいだ、ずーっと、ジムの姿が、おれの目の前に見えていた。…昼間も、夜のあいだも、ときには月の明るいこともあり、ときには嵐のこともあり、そして、おれたちは筏で流れていき、しゃべったり、歌ったり、笑ったりした。
けれど、どういうわけか、おれは、ジムに腹を立てるようなことは、ちっとも思い出せないみたいで、逆に、そうでないことばかり思いだした。おれは、ジムが自分の見張り番をすましてしまったのに、おれを起こそうとせず、おれが眠っていられるようにって、おれの分まで見張りに立ってくれたのを、はっきり思い浮かべた。
(略)ジムが、いつでも、おれのことを「ぼうや」って言って、かわいがって、おれのために思いつくかぎりのことをしてくれて、そして、いつでも、どんなに親切だったかが心に浮かんだ。
そして、しまいに、おれは、自分があの男たちに、筏の上には天然痘の病人がいるって話して、ジムを助けたときのことを、ぱっと思いだした。
あのとき、ジムは、ほんとにありがたがって、おれのことを、ジムじいやがこの世でもった、いちばん良い友だちだって言い、今もってる、たったひとりの友だちだって、そう言ってたっけ…
ー 『ハックルベリー・フィンの冒険』第31章[1]
ハックは、二者選択を迫られます。つまり、お祈りができるようにジムの居場所を持ち主に報告するか、地獄に落ちてもいいから、奴隷のジムを助け出して逃亡を助け続けるか、どちらにするのかきっぱり決めなきゃいけないんだと思ってふるえます。
ハックは、ちょっとの間、息を止めるみたいにして考えてから、こう言います。
よし、それなら、おれは地獄へ行こう!
ー 『ハックルベリー・フィンの冒険』第31章[1]
ハックは、ジムを助け出そうと決意して、計略を練り出します。偶然再会した悪友のトム・ソ-ヤーの協力もあり、大騒ぎのあげく、見事、ジムを脱出させることに成功します。
ラストは、ジムの持ち主であった人は数か月前に亡くなっており、遺言でジムを、すでに自由にしてあったんだということが判明します。ハックのお父さんも亡くなっていたことがわかり、自由の身になったハックは、トムソーヤーと共に、新しい冒険の旅に出かけようと計画を練るのでした。
本当に自分自身で考える
ところで『ヨガ・スートラ』の中に、こんな文がありますよね。
正知のよりどころは、直接的知覚、推理、および聖典の証言である
ー 『ヨガ・スートラ』第1章7節[2]
正しいと言われることは、時代や国によって変わります。1840年代のアメリカでは、黒人の奴隷を持つことは悪でも何でもなく当たり前のことでしたし、黒人奴隷の逃亡を助けることは罪とされていました。けれども、今では、黒人差別がゆるされないということは、当たり前に正しいとされていることです。
何が正しくて、何が正しくないことなのか。本当に正しいとはどういうことか?
何が本当に正しいことなのか、自分の目で実際に見て、自分自身で考えなければいけないと、パタンジャリは言います。みんなが正しいと言っているから、正しいんだろうと思うのではなく、自分の目で見て感じて、しっかり考えぬいたこと。それこそが本当に正しい答えなんだと、『ヨガ・スートラ』では語っています。
ヨガの先生がそう言ったからといって、すぐに、その言葉を信じてはいけないわけです。自分自身で、古い聖典を開いて調べ、考えなければいけないというわけなのです。
ですから、このヨガコラムも、本当はあまり信用してはいけないわけです。ハックの本を、ご自身で開いて読んでみて、どんな物語なのか、自分でしっかり知ることが、本当にハックの物語を知る確実な方法なのですから。
ハックは、黒人のジムを助けるべきか、どうするべきか悩んだ時、頭がズキズキするまで、考えぬきました。自分でしっかりと考えぬいた答えは、結果がどうであろうと、それは正しい答えなのです。
まわりの常識にとらわれずに、目の前にいたジムとの友情を大事にできたハックは、パタンジャリも拍手を送るほど、正しい答えをすっぱりと出すことができたのだと思わないわけにはいきません。ハックにそれができたのは、きっと、彼が、いろいろなものにとらわれていない、宿無しで暮らす自由児だったからなのでしょう。
ゴタゴタと書くのは、この辺りでおしまいにしましょう。『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでくだされば、ハックの自由なのびのびした考え方、ジムの心のきれいさはすぐに分かっていただけますし、息のつまるハラハラドキドキした冒険を、心ゆくまで味わっていただけます。
いつの時代にも色あせない本当の名作であるハックの物語を、みなさん、一度、手に取って見て下さい!
参考資料
- マーク・トウェイン著、大塚勇三訳『ハックルベリー・フィンの冒険』福音館書店、1997年
- スワミ・サッチダーナンダ著、伊藤久子訳『インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ』めるくまーる、1989年