記事の項目
この連載では、今までヨガ教典の中に書かれた様々なヨガの知恵についてご紹介してきましたが、今回は、そもそも哲学とは何?という疑問について説いてみます。
哲学という言葉の意味
哲学とは、「叡智への愛」(ギリシャ語のphilosophia)を語源とする言葉です。世界中に様々な哲学がありますが、共通しているのはものごとの本質やルーツについて知ろうと探求する学問である点です。不明瞭なものに対し熟考し明確化するという役割があります。
哲学とは、何か特別なものではありません。哲学は人生での経験と常に繋がっているものです。人は誰でも、生きていく中で自分自身の哲学を持っています。例え、教養のない人であっても、意識の高い人であっても同じです。
生きることと哲学を切り離して考えることはできません。その人が生きていく中で積み重ねた思考は、それぞれの人にとっての哲学です。
インド哲学・ヨガ哲学とは?
インドの言葉では、哲学のことを「ダルシャン」と呼びます。ダルシャンという言葉の語源は、「見るための2つの“目”」です。それは、「今」起こっている現実を正しく見るための目です。
私たちが通常、目でものを見る時には、表面的な世界しか見ることができません。しかし、哲学を学ぶことによって、物事のもっと奥に存在する真実を見ることができるようになります。
ヨガ哲学は、現在いる場所と超越した世界との懸け橋です。超越した世界とは、サマディの体験のように、日常見ることができない世界です。
超越した世界との距離を縮めることがヨガの目的です。今いる世界と、超越した世界を切り離して考えることは危険です。
超越した経験をしたいだけであれば、薬物で体験することもできるし、事故などがきっかけで見えるようになる人もいるでしょう。体験することが目的であれば、いくつもの方法があります。
スピリチュアルな力の強い聖者は他人に触れただけで神の世界を見せることができるそうです。
例えば、近代ヨガの代表的な先生であるスワミ・ヴィヴェーカナンダ氏のグルであるラーマクリシュナ氏は、超越的な世界に住んでいた聖者として有名です。6歳の時から神秘体験をし、カーリー女神を自分の実の母として信仰しました。
しかし、超越した体験がヨガの目的なのでしょうか?確かにヨガでは神秘的な体験をすることもできます。しかし、そこに執着すると、リアルな現実世界が、ないがしろになってしまいます。
ヨガ哲学が八支則というプロセスで少しずつ超越世界へのステップを踏んでいくのは、現実的な人生を大切にしながら、人間の本来もつ神秘性も実現するためではないでしょうか。
ヨガ哲学は、超越的な体験と、現実世界の両方を真実として繋げるためのかけ橋です。
ヨガ哲学は”Why”ではなくて”How”を考えるもの
ヨガ哲学に関わらず、全ての哲学は先人たちが抱いた疑問から生まれたものです。例えば、「この世界はどのように誕生したのか?」など。しかし、論理展開で説明できる答えには限界があります。
サーンキャ哲学の場合、あらゆるものの起源を辿っていくと、プルシャとプラクリティという2つの根源にたどり着きますが、プルシャとプラクリティがどのように生まれたのかは誰も説明ができません。
プルシャがどうして生まれたの?というのは、誰にも解き明かすことができず、それらについて考えることは、意味のないことだと考えられています。
疑問を持つことは大切なことですが、疑問を追求し続けることだけでは、自分の人生を豊かにするヒントにはなりません。
私たちは”Why?(なぜ)”という質問をしがちですが、“Why”という疑問の終わりなきループは落とし穴でもあります。「なぜ私は存在するの?」「私は誰?」といった哲学的な質問には、必ず理論では説明できない限界があるからです。
ヨガ哲学で重要とされる質問とは“How?(どのように)”です。「どのように人間関係の問題を解決したら良いの?」といった質問に対し、哲学は問題の解決に役に立ちます。
ヨガ哲学を勉強するときには“How”という質問について思考の方向を向けていきましょう。ヨガ哲学は、自分自身を高めて、人生を幸せにするためのものなので、過去よりも未来に向けて考えることが大切です。
全ての答えは自分の内側にある
インドの哲学の大きな特徴として、疑問の答えはすでに自分の内側に存在していると考えられていることです。解決したい問題の答えは、どれだけ外に求めても見つかりません。
本当の答えは自分がすでに知っています。様々な雑念によって隠れてしまっている答えを見つけ出すのがヨガ哲学です。
ヨガ哲学は学派によって真理への解釈が違うことがあり、たびたび混乱を生みます。例えば、ヴェーダンタ学派の一元論とサーンキャ哲学の二元論は比較されることが多いです。
では、どの哲学が正しいのか?と比較していても、理論の無限のループにハマってしまうだけで、納得できる答えを見つけることは困難です。
教典の言葉よりも自分の経験を信じる
インド哲学の答えは、自分自身の経験の中から見つけ出します。
仏教の開祖であるブッダ(ゴータマ・シッダッタ)も、始めはヴェーダの一元論的な世界観に納得することができず、真実を模索していました。結果的に、師や兄弟子と別れて、自分一人で瞑想をしている時に自分自身の答えを見つけ悟りを開きました。
すでに経験を積んだグル(師)や、教典は私たちの哲学の答え探しの道しるべとなります。しかし、言葉で学んだだけの知識は、ヨガの実践としては不充分です。知ることが目的の知識とならないように、体験するための知恵としてヨガ哲学を深めるようにしましょう。
ヨガを極めると無欲の仙人のようになるの?
ヨガの哲学では、あらゆる執着を手放して自分の内側にある本質的な幸福に意識を向けていきます。
すると、最終的には物質世界への欲がゼロになり、山奥の仙人みたいになるのでしょうか?もちろんヨガの聖者にはそのような人もいたのでしょうが、実際に多くの人がヨガを行うときには、もっと生物的な思考の葛藤を抱くものです。
人間としての本能による葛藤
一般的に「執着(欲望)」と「解脱」の関係性について考えることがヨガでは多いです。
しかし、実際には私たち人間のもつ「本能」が大きな葛藤を生みだす場面が多くあります。
例えば、砂漠の中で限られた水分を無駄にできない状況下で、喉が渇いて水が飲みたいと思うのは欲望なのでしょうか?
生命活動を維持するための人間の本能は、どれだけヨガで思考をコントロールできるようになっても、捨てるべきものではありません。
だとすれば、その問題に対して、どのように向き合わなくてはいけないのでしょうか?
結果として水を飲む行為に行きつくとしても、ヨガでは背景や心理状況について熟考します。もし、一緒にいた仲間が「遠慮せずに水を飲みなよ」、と言ってくれたのであれば、与えられたものは水ではなくて「愛」です。
逆に、喉が渇いたからといって、他の人を蹴落として自分の欲求を叶えたのであれば、それは正反対の状態です。
結果よりも、過程や心理状態に目を向けましょう。もし、自分自身の心を育てることができれば、同じ結果が起こったとしても、心の状態は大きく変わります。それは私たちの人生の希望となります。
本能と知性の間にはいつも葛藤が生まれますが、その隙間を埋めることができるのが哲学です。
自分の人生の哲学を育てる
冒頭で書いた通り、哲学とは特別なものではありません。人間ならば誰しもが持っている思考の癖のようなものです。人間は生きている間、考えることをやめません。であれば、自身の心の習性を変えることによって、幸せを呼び寄せることができます。
身近なところから、自分自身の心について考える哲学の習慣を身に着けてはいかがでしょうか。