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自分自身の意識を高め、自らの学び、そして自己の本質への気づきを深めるうえで、師匠(グル)の存在はとても大きいものです。
ただ、師匠との出会いというのは、探せば叶うというものではなく、必要なタイミングで、必要な師と巡り合う。あるいは、お互いの意識の共鳴で、運命が引き寄せる、といったイメージに近いんじゃないかと感じています。
わたしと師匠もまさにそうでした。わたしから弟子入りを懇願したわけでも、師匠のほうから弟子入りしなさいと言われたわけでもありません。
わたしの師であるDr.ラッド博士は、アーユルヴェーダの恩師でもあります。講義を受けるうちに、自然と師の手伝いをするようになったり、声をかけてもらうようになったり……。そうした流れのなかで、いつの間にか、教師と生徒という関係から、徐々に師弟関係へと深まっていきました。
本気で自分と向き合う覚悟が、必要なグルとの出会いへと導く
たとえばインドのマイソールにある、アシュタンガヨガの総本山といわれるようなアシュラムは、希望すれば誰もが入れるような場所ではありません。ある程度、学びの本質を理解している、あるいは本質とむき合う覚悟があるか否かが条件になっています。
というのは、アシュラムでは、初心者の場合、太陽礼拝の2,3ポーズしか最初はできないんですね。このとき、学ぶとは何かを理解できていなければ、なぜ、自分はこれしか教えてもらえないのか? と不満が出てきてしまいます。
グルたちは、ヨガの技術、スキルよりも、一人ひとりの精神性を重視していて、生徒が与えられた課題をとおして、どれだけ内側と向き合い、精神的な成長を遂げられるのか。そこをシビアに見て、生徒の精神性が成熟してきたと感じたタイミングで、次の学びを提供します。
ようは、ただ受け身の姿勢で技術を習得するのではなく、同じことを繰り返しながら自分の内側を見つめ、かつ師匠の想いを、ともに生活するなかで受け取っていく。そこが大切になってくるんですね。
どの世界でも、師匠は弟子に、技術は盗むものとよくいいますが、これは口で説明をしたところで理解できないことのほうが多いから。
ただ単に表面的なスキルを盗むのではなく、もっと深い部分。師匠の生き様や、どういう想いでヨガ、また人生と向き合っているのか。そこへの理解とともに、スキルを腑に落としていくことに重きを置いているというのが師弟関係の本質なのです。
頼る、頼られるという関係ではない
知りたいことを教えてくれる、自分の足りない何かを満たしてくれるというのは、本当の師弟関係ではありません。それでは、いつまで経っても本質が理解できないので、次から次へと、ティーチャーを探すようになってしまいます。外に答えを求め続ける人生が続いてしまいます。
大切なのは、内側にいかに意識を向けられるようになるのか。伝統的な師弟関係というのは、グルの姿をとおして、そのことを深めていく関係性です。頼る、頼られるという関係性とは大きく異なるのです。
そんな風に、自分の本質と向き合いながら、グルとの関係が深まったとき、予期しない学びが、予期しないタイミングでもたらされます。わたしの場合は、手相学というものを、あるとき突如、師匠から学びました。アーユルヴェーダのなかに手相学というものはないので、とても驚いたのですが、師匠は直感で、それがわたしには必要な学びであることを察知していたようです。ただ、こうした師匠からの直感的なアプローチというのは、それを受け取る側の深い部分での同意、つまり受け取る準備が整っていなければ、起こり得ないものです。つまり、わたしにとって手相学は、精神的なレベルで機が熟したからこそ、受け取ることができた学びだったのです。
この経験をとおして、必要な学びというのは、意図して得られるものではないことを心底理解しました。
大切なのは、外との比較からは知り得ない学びと、いかに向き合えるのか
自分と向き合うなかで、その時々で必要な学びというのは、誰にとっても平等に訪れています。でも、人はつい外に意識が向いてしまうので、人と比較して、自分の学びのチャンスを逃していることも多々あります。
たとえば、あの人は学べて、なぜわたしには学べないの? と外のことばかり気になって、焦りや嫉妬、怒りに飲み込まれてしまうと、ますます、いま自分に与えられているチャンスが見えなくなってしまうでしょう。
ましてや、そうした心理状態では、グルとの信頼関係もうまく深まっていきません。本当は、信頼関係から学べることのほうが、圧倒的に大きいのですが、意識が外に向いているときには、そのことにさえ気づく余地がありません。
どれだけ、いまと丁寧に向き合い、自分に意識を戻せるのか。そこが精神性の高さとも比例してくるわけで、カルマヨガというのは、まさにその鍛錬でもあるんですね。
カルマヨガから得る、目には見えない深い学び
グルへの奉仕、というのもカルマヨガのひとつですが、見返りを求めずに、ただただ静かに奉仕をしていくというのは、単にグルに喜んでもらうためではありません。いま、何が必要で、何が求められているのか。それらを空気から察知する洞察力を磨くため。つまり、エネルギーを読むためです。そうして意識を繊細にピュアにしていくことで、グルの心が読めるようになります。そこから、より深い学びや知恵がもたらされます。
わたしたちは、長い歴史のなかで、意識を外側に向けることのほうが自然なことだったので、意識を内側に向けることに慣れるまでには、当然時間はかかりますが、その道のりを丁寧に進んでいくと、ものごとの深みがどんどん理解できるようになり、人生はより豊かになってくるものです。
こうした自分の奥深くと向き合いながら、一人ひとりが本当に必要としている魂の学びを深めるには、やはり自分ひとりではうまくいかないこともあります。だからこそ、グルがいるのだと思います。グルは、自分と向き合う本質を、生きて教えてくれる存在です。
意識が外側から内側へと向けることの重要性に気づいたとき、あるいは意識の方向転換が始まったとき、自分にとって必要なグルとの出会いは自然に起こってくるはずです。