こんにちは。丘紫真璃です。今回は、日本の児童文学作家、後藤竜二の作品を取り上げたいと思います。
児童書といえば、子どもが読むものだと考えていらっしゃる方が多いかもしれません。けれども、優れた児童書というものは、子どもはもちろん、大人にも愛されるものです。そして、いくつになって読み返しても面白く、前に読んだ時には気がつかなかった発見がたくさんあるものだと思うのです。
後藤竜二の作品は、まさしく、そういう児童書です。年代を超えて愛され、そして、時代を超えても古びない名作ばかりです。後藤竜二の作品はどれも面白いのですが、ここでは、『天使で大地はいっぱいだ』とヨガのつながりについて考えてみたいと思います。
『天使で大地はいっぱいだ』とは
『天使で大地はいっぱいだ』は、後藤竜二のデビュー作です。この作品は、「第7回講談社児童文学新人賞」の佳作を取りました。後藤竜二は、この作品を大学卒業する頃に執筆しました。彼はのちに、この作品について、次のように語っています。
自ら求めた大都会の学生生活の中で、なにやらカラッポになって、それでもなおつぶされてしまうわけにいかなかったものを、たしかめてみたい、自分のことばにしてみたいと、そんな気持ちで書き上げました。
『天使で大地はいっぱいだ』は、北海道の農家が舞台なのですが、後藤竜二が育った家も北海道にある農家です。都会の大学生となった後藤竜二が、故郷の町にあった大事なものを、作品の中にありったけまっすぐ清々しくこめた……そんな作品にも感じます。
後藤竜二は、この作品をはじめとして、『キャプテンはつらいぜ』シリーズや、『12歳たちの伝説』シリーズなど、数々のリアリズム児童文学の名作を残しました。
主人公サブ目線で展開されるストーリー
『天使で大地はいっぱいだ』は、主人公サブのイキイキした語り口ですすめられます。
そのサブは、小学校6年生。北海道の石狩川のそばの農家の子どもで、とうさん、かあさん、おばあちゃん、大学を辞めて百姓をしている長男のノブさん、高校3年生の次男のシド、中学3年生の三男のジョウ、それに、小学3年の妹のマキと、忙しくにぎやかに暮らしています。
物語は新学期から始まります。新米の女教師「キリコ」が、サブ達6年3組の担任になるのですが、新米の女の先生なんてとんでもないと、サブ達は次々に、キリコにいたずらをしかけます。けれど、キリコはいたずらを面白がって笑ったりするような先生だったので、サブ達は、キリコのことが気に入り、仲良くなります。
そんなある日、6年6組のアオが、中学生達にからまれているのをサブ達は助けます。
後日、アオはお礼にと、きれいな靴下をサブに持ってきてくれたのですが、サブは、こんなものをもらうためにやったんじゃないとはねのけてしまいます。
その事件がきっかけで、アオとサブは、すっかりギクシャクしてしまいますが、そんなある日、学校で、クラス対抗野球試合をすることになりました。アオ達とサブ達は、敵意むき出しで、ライバル心を燃やして戦います。
勝負は互角。もつれにもつれ、ついにはジャンケンで勝負を決めることになりました。
アオとサブがジャンケンをして、サブが勝ったのですが、それがアオには気に入りません。アオは、サブを見て言います。
ほんとに続けてりゃ、ぼくらの勝ちなんだ。
ー 『天使で大地はいっぱいだ』[1]
その言葉に、カチンと来たサブは、アオと激しくののしり合い、大げんかをします。大粒の雨がふり、ほかのみんなが校舎に入ってしまっても、二人は木の下に立ち、ののしり合いを続けます。ついに、かみなりが鳴り響いたので、二人は同時に校舎に向かって駆け出したのですが、駈け出しながらも、二人はお互いに言い合いをします。
「よわ虫め!」と、ぼくは走りながらいった。
「よわ虫め!」と、アオがいった。
「青びょうたん!」
「やばん人!」アオがとちゅうですべってころんだ。ぼくはいまいましそうにアオの手をひっぱった。その手はぞっとするほどつめたかった。
ー 『天使で大地はいっぱいだ』[1]
ここで、ケンカしながらも相手のことを自然に助け、手をさしのべるあたりが、サブの魅力だといえるでしょう。そのサブの魅力は、その後も発揮されます。
あの大雨の事件の後、アオが学校に来なくなってしまいます。アオは、大雨に濡れて急性肺炎にかかり、入院していたのでした。サブの友達は、アオのことをいやなやつだと思っていたので、アオのお見舞いに行きたがりませんでしたが、サブは迷わず、大きなメロンを持って、アオの病院にお見舞いに出かけます。そして、ケンカなんてなかったかのように、「おまえ、元気だせよ」とアオに声をかけるのです。
そのお見舞いをきっかけに、サブとアオは仲良くなります。
そして、夏休み。アオはサブの家にしょっちゅう遊びにくるようにまでなるのです。
サブの魅力を育む、家族のこと
例え、今ケンカしてる相手でも、自然に助けてしまうサブの魅力は、家庭内で育ってきたんだなということが、物語を読んでいると、よくわかります。
サブの家は農家です。年中無休で、土曜も日曜も関係なく、16時間くらいは平均して働いているくらい忙しく、サブ達兄弟も、早朝や放課後、夏休みには家の手伝いに駆り出されます。
びんぼうひまなし、と、サブのとうさんが言っている通り、決して裕福そうではないのですが、それでも、サブの家族には苦しそうな影は全くなく、いつも明るく、にぎやかで、温かいものが流れています。
アオが、サブの家に遊びに行った時にも、サブ達はやはり、畑にいて、トマトの収穫にいそがしくしています。いそがしそうなサブと家族の様子を見て、アオはそわそわと遠慮して帰ってしまおうとするのですが、
うちは、いっつもいそがしいから、気楽にして、まず、トマトでもかじんなさいや。
ー (『天使で大地はいっぱいだ』[1]
と、サブのとうさんは、アオに笑って声をかけます。
とうさんたちはアオのことはかまわず、冗談をいったり、わらいあったりして、いつものとおり仕事を続けていた。
アオも最初のうちこそ、そわそわしてたけど、やがて選別をてつだいはじめ、じぶんでもみんなにまじって冗談をとばしたり、マキといいあいをしたりした。
ー 『天使で大地はいっぱいだ』[1]
そんなサブの家に、アオはしょっちゅう遊びにきます。サブの家にいつ来たって、畑仕事を手伝うことになるだけなのに、アオだけでなく、サブの友達のジックやロック、はては、サブの担任のキリコまでもが、しょっちゅう、サブの家にやってきて、みんなでにぎやかに、わいわい冗談をいったり笑ったりしながら、畑仕事をするのです。
サブの家に集まってくるのは、サブの友達や、担任の先生ばかりではありません。物語の終盤、サブは石狩川で自殺しようとしていた若い青年「ゴンさん」を助けるのですが、ゴンさんもしばらく、サブの家に居候します。
ゴンさんは、あいかわらず、みんなの中には顔をだしたがらず、食事もひとりでした。それをぼくらは気にもしなかった。
ぼくの家のみんなはこういう「へんなやつ」にはなれっこになっていたんだ。いままでだって、いろんな人たちが、いそうろうしたことがあるんだ。いちどなどは、かっぱらいでつかまった季節労務者と、ぶどう畑の見はりをやったこともあるんだ。
ー 『天使で大地はいっぱいだ』[1]
自殺未遂を起こして死のうとしていたゴンさんのことも、あまり気をつかうわけでもなく、サブ達は放っておき、いつも通り、にぎやかに畑仕事をして暮らします。そんなサブの家で過ごすうちに、ゴンさんは立ち直っていくのです。
農家のヨギー
サブの家にみんなが集まってくる秘密はどこにあるのでしょう。サブは、こんな風に書いています。
どういうわけか、ぼくの兄きたちは、みんなにやにやわらいが得意なんだな。でも、ごかいしないでくれよな。けっして人をばかにしたようなわらいかたじゃないんだから。
かといって、しまりのない顔なのかなんて思われちゃ、なおこまるけどね。つまりさ、どんなことにたいしてでも、けっしてあわてないし、あせらないし、けいかいしないし、敵意をもたないで、まずなんでも受け入れちまう…
そんな表情のわらいなんだよ。ぼくは思うんだけど、このわらいかたは、どうもとうさんからの遺伝じゃないかと思うんだ。
ー 『天使で大地はいっぱいだ』[1]
顔は心をそのまま映し出すと言われますが、まさしく、あわてず、あせらず、警戒せず、敵意をもたないで、なんでも受け入れる……その心が、サブの家族たちに、温かく流れているのでしょう。そして、それこそ、まさしく、ヨギーの心そのままといってもいいのではないでしょうか。
もちろん、サブの家族達は、ヨガなんてものはしていません。けれども、毎日、休みなく続ける農家の仕事をすることこそ、ヨガだという気が、私にはするのです。
大地に種をまいて、野菜を育てて、収穫する
大雨や、雷、大雪、猛暑、冷夏、様々な気候の条件で、野菜の生育は変わります。
絶えず条件が変わる天候の中で育つ野菜を注意深く観察し、細心の注意を払って、野菜を育てていく作業。それが、絶えず、変わる自分の心とカラダを注意深く観察し、自分自身を育てるヨガの修行と重なるものがあるような気がするのは、私だけでしょうか。
大学をやめて、百姓になったノブさんは、こんな風に言っています。
大学生になったり、百姓になったり、先生になったり、政治家になったりすること…
つまり、なにかになるってことは、どれもたいせつなことじゃないんだ。なんになってもかまわない。
じぶんにむいてると思うものになって、そこで、みんなもじぶんもうまくやってけるように努力することが、そのことだけが、たいせつなことなんだ。
ー 『天使で大地はいっぱいだ』[1]
ノブさんに答えて、サブも言います。
じぶんやじぶんの友だちだけでなしに、みんながしあわせになることを考えなさい、って、キリコもいってたよ。
ー 『天使で大地はいっぱいだ』[1]
百姓の仕事にかぎらず、どんな仕事でも、向き合い方次第では、ヨガになるのかもしれません。みんなもじぶんもうまくやっていけるように努力して働くこと。みんなのしあわせを考えること。それはもうまさしく、パタンジャリが、『ヨガ・スートラ』の中で繰り返し語っていることといえるでしょう。
サブ達はむずかしいことはぬきに、畑でにぎやかに働いたり笑ったりして、どんな人も自然に受け入れて、北海道の自然の中で生きています。そんなサブ達のすがたをページをめくって追うだけで、お腹の底が温かくなるものを感じます。
『天使は大地でいっぱいだ』は夏の物語ですが、『大地の冬のなかまたち』という冬の続編もあります。2つを合わせて読むと、より胸に響くものがあると思います。
参考資料
- 後藤竜二著『天使で大地はいっぱいだ』講談社、1995年