瞑想の話が噛み合わない!?
次号『Yogini』Vol.78(9月19日発売)は、「瞑想」を特集する。特集するために、先に何人かの先生の話を聞いている。一度に数人と話した時、それぞれが話していることが噛み合っていないことがあった。
ちょっとした「いや、そうじゃないでしょ」的な雰囲気が流れ、あれ?と思った。でも、それは当たり前。個々人で実践している瞑想が異なっているからだ。そうなると、実践方法から、起こること(体験)などが現実的に変わってくる。起こることの先にある体験(求めているゴール)は同じなのだろうが、途中経過が異なるために話が噛み合わなくなってくるのだ。
多くの人にとって、最初、瞑想は「頭の中を空にする」ことと聞くし、そうしなくちゃ、と思って始めるのではないだろうか?ただ、最近はマインドフルネスの広がりで、少し違うかもしれないし、マントラ瞑想やヤントラ瞑想など、空にするのとは異なる方法も昔からあって、それぞれ実践している人が多い。瞑想を実際に始めると多様性と、向き不向き?などに気づくだろう。
「人はこんなに静かになれるのか…」
私(デスク オーシマ)は、『Yogini』でずっとお世話になって、勝手に師と仰ぐ小山一夫先生の瞑想を究極の目標としているが、その道のりは長く険しく、まだスタート地点にさえたどり着いていないかも…。まるで東京マラソンの一般参加で、かなり後ろのほうに並んでいる感じ。
いろいろな瞑想を試して、それなりにさまざまな体験もしているが、小山先生と一緒に瞑想していただいた際の経験は、それをはるかに凌駕する。むしろ瞑想から覚めて以降に「人はこんなに静かになれるのか…」という状態になった。この体験をなんと言ったらいいのか、言葉を仕事にする私も未熟ながら表現できない。いや、表現しなくていいや、と思っているフシもある。
片岡鶴太郎さんを取材した際、鶴太郎さんの自宅には瞑想部屋と、瞑想後に静かにお茶を飲む部屋が別にあった。瞑想部屋は静かで落ち着いたエネルギーで、何もないのに満ちている感じ。瞑想後の部屋は、やはり静かなのだが、少し動きが加わった感じ…とやはり少し違いがあった。瞑想中と深く瞑想に入った後に訪れる感覚の違いが興味深い。
古くは「深い思索・熟慮」が瞑想
この特集のために、瞑想指導者であるヴェーダプラカーシャ・トウドウ先生に取材した。話によると、そもそも瞑想は「深い思索・熟慮」などから始まったようだ。対象は自然(神)。つまり「考える」ことからのスタート。それが次第に「考えない」になっていく。この流れがおもしろい。瞑想で何を求めるかの劇的な変化があったのだ。『ヨーガ・スートラ』で一つのヨガの形が体系化された以降は、瞑想の定義もかたまっていく。それを基に、瞑想のやり方が整っていったのだろう。そして「真我に至るプロセスが瞑想、つまりヨガです」とトウドウ先生が話すように、ヨガそのものが瞑想を指すに至ったのだ。
雑念とはナンダ?
また、林良樹先生も取材している。瞑想実践者の薬学博士であり、10年以上前からヨガのワークショップなどで、瞑想やアーサナと科学との関係を伝えている。ここでは雑念について話をした。雑念はなぜ起こるのか? 究極の理由は「命を守る」というDNAのためだ。さまざまな話題がほぼ、そこにつながっていく。物理的な体は「生きる」ための反射を基に行動するから。雑念は人間にとっての生きる戦略。大事な行動原理だった。
瞑想は物理的な体を離れる(いろいろな意味で)ことが、まず必要だ。命の危険を回避し、そこにじっとしていられること。動物や魚、昆虫などなら硬い殻を持ったり、擬態したりと、いろいろな戦略を取っているだろう。しかし、人間はまず理性でそれを乗り越え、次に理性を取り外すという高度な技術をもってして、瞑想に入る。人間として生まれたからには、この高度な技術を謳歌したいところだ。
で、結局、瞑想とは?
瞑想を行う目的はトウドウ先生が話すように「真我に至るプロセス」として、その状態が日常的になっていることが、本来の目的だろう。仕事や家事に従事している時に、人間関係において、瞑想で得られる静けさや穏やかさをもとに感じ、考え、その力を発揮する。瞑想は他の人も巻き込んでいくことができるエネルギーだ。そんな威力を自分から発揮できたら、きっと周囲との関係もよくなり、行うことが楽しくなって、いつも心地よくいられるだろう。
ちょっと普通と違う角度から見てみると、、もしかすると、現代人にとって、瞑想は生きるための「究極の戦略」と言ってもいいのかもしれない。
Text: Yogini編集部