日常で実践するヨガ哲学〜エゴを超えて、真の優しさに目ざめるヴェーダンタ〜

日常で実践するヨガ哲学〜エゴを超えて、真の優しさに目ざめるヴェーダンタ〜

ヴェーダンタ哲学という言葉は聞きなれない方も多いかもしれませんが、『バガヴァッド・ギーター』の哲学といえば分かる方もいるでしょう。ヴェーダンタ哲学の基本を知っていると、ヨガの世界観がもっと深く感じられます。すると、ギーターなどの教典への理解も深まります。

ヴェーダンタ哲学はたった一つの真実「私はブラフマン」という教えだけを説いています。それを理解することで、一見難しく感じる哲学がもっと身近に感じられるかもしれません。

インドに伝わる6つの正統哲学の一つ

インドには6つの正統哲学(シャット・ダルシャン)があり、ヴェーダンタ哲学はその中の一つです。

6つの政党哲学〜六派哲学とは〜

  • ミーマンサ哲学
  • ヴェーダ教典の宗教儀式に重きを向いている学派。マントラなど。

  • ヴェーダンタ哲学
  • ヴェーダ教典を論理的に説く学術的な学派。

  • サーンキャ哲学
  • 数論派。世界はプルシャとプラクリティから発生した25の要素によって作られたと説く。

  • ヨガ哲学
  • 瞑想を中心とした実践に重きを置き、論理展開はサーンキャ哲学を元にしている。

  • ニヤーヤ哲学
  • 世界を正しく理解することで解脱すると信じる論理的な学派。

  • ヴァイシェーシカ哲学
  • 世界に存在するものの要素を論理的に解き明かす。

これら6つの哲学は、古代のヴェーダ教典の存在を根底に置く点において、インドの正統哲学と考えられています。中でも古代教典ヴェーダの教えを強く引き継いでいるのがミーマンサとヴェーダンタです。

ミーマンサはヴェーダの儀式(実践)を、ヴェーダンタはヴェーダの知識部分を担っていて、一対のものとして考えられています。

ヴェーダと対極の3つの異端哲学にも注目

同じようにインドで生まれた哲学でも、ヴェーダの考えから離れ、アートマンの存在を認めない哲学を異端哲学(ナースティカ)と呼びます。

  • 仏教
  • ヴェーダが説くブラフマンやアートマンを否定して、諸行無常などの考えを生みだした。

  • ジャイナ教
  • インド固有のカースト制やバラモンの権威を否定。正しい行いによって解脱があると説く。

  • チャールヴァーカ
  • カルマ(業)の仕組みさえ否定し、現世を楽しむことに重きを置く。

仏教やジャイナ教はカルマ(業)の法則を認め、正しい行いこそが幸せに繋がると考えていますが、チャールヴァーカは目に見えないものの存在を一切否定し、快楽主義的な特徴があります。

これらの哲学は異端哲学と呼ばれながらも、正統哲学に大きな影響を与えています。例えば、パタンジャリの『ヨガ・スートラ』ではジャイナ教や仏教の理論が取り入れられています。

ヴェーダンタ派の最も有名な哲学者であるシャンカラも、仏教用語と比較しながら無二一元論という有名な言葉を生みだしました。

目指すのは、究極のエゴの超越「梵我一如」

ヴェーダンタ哲学には沢山の教典があり、解説本があり、正式なウパニシャッドだけでも108つ存在すると考えられています。

そのため、すごく大きな哲学であると考えられていますが、全てのヴェーダンタ教典で説かれている真理はたった一つ「私はブラフマンである」ということです。日本語では「梵我一如」と言います。

「梵」は宇宙原理であるブラフマンを意味し、「我」は真の自己であるアートマンを意味します。つまり、自分自身は大いなるブラフマンと一体であると知ることがヴェーダンタ哲学の目的です。

世界はエゴという幻想で作られている

たった一つの真理を知るために、沢山の教典と実践が必要なのはどうしてでしょうか?それは、私たちが、無知によって真実を見ることができなくなってしまっているからです。

無知の中で最も大きなものはエゴ(自我意識)です。

「自分が」と、自己と他者を別物と考える間違った定義によって、あらゆる誤解が生まれます。「私は○○」という言葉に入るものは原則として無常のものです。

「私は母親」「私は女性」「私はこの身体」「私は日本人」「私は髪が黒い」。これらは全て、他者と自分を比較した時に出てくる言葉ですね。また、どれも変えることができるもの、つまり無常なものです。

変化するものの一時的な姿は、その時の状態を表しているだけであり、本当の姿だと考えません。

無知の中で最も大きなものはエゴ(自我意識)
無知の中で最も大きなものはエゴ(自我意識)

唯一変わらないのは「私は○○」の「私」の部分だけです。「私」には何の特徴もなく、他者との違いもありません。この、本当の自分を知ることこそがヨガです。

自分を他者と区別しようとすることをエゴ(自我意識)と呼びます。

自分というエゴを捨てると、どれだけエゴによって自分の可能性を制限していたのかに気が付きます。自分で作り上げてしまった「私は○○である」という枠を取り除いていきましょう。本当の自分は限りなく自由であると気が付くことができます。

エゴを無くして初めて永久不滅の至福“宇宙との一体”を生きられる

さて、自分への制限であるエゴを手放すとどうなるのか?

ヴェーダンタ哲学では、本当の自分を知ると宇宙と自分が一体になると考えています。エゴを手放したとき、自分と他者の間には何の違いもありません。

その時、あらゆる差別がなくなっていきます。

賢者は、学術と修養をそなえたバラモンに対しても、牛、象、犬、犬喰いに対しても、平等(同一)のものと見る。(『バガヴァッド・ギーター』5章18節)

自分自身の内側に宿る本質(アートマン)に気が付くと、他人だと思っていたあらゆる生命のなかに宿る本質(アートマン)も自分自身と同様に感じることができます。その時、表面的な姿には惑わされなくなります。

自分自身も外の世界も、本質を見れば同一のもの(アートマン)である。つまり、宇宙(ブラフマン)は全て一体のものである。というのがヴェーダンタ哲学の全てです。

日常で感じられる梵我一如

日常で感じられる梵我一如
日常で感じられる梵我一如

例えば、森など自然の中に行った時、自分の自我が消えて、自然と一体になった感覚を体験した人は多いかもしれません。

また、他人に対して感じる「慈・悲・喜・捨」は自分に対するエゴが弱まった時に感じる感情です。親しい人が悲しんでいる時には一緒に悲しむ「同情」という感情があり、友が成功した時に喜ぶのは「友情」です。

自分の利益と他人の利益を同等のものと感じ、周りの人や、社会全体が心地よくなれる世界を祈ることができれば、それはギーターの説く「平等の境地」に近づいていると考えられます。

逆に、他人が成功した時に妬んだり、嫌いな人の不幸を喜ぶのは、エゴの象徴的な感情ですね。自分の感情をコントロールすることは難しくても、今の心の状態を観察して知ることはヨガにおいてとても大切です。

ヴェーダンタ哲学の解説書が『バガヴァッド・ギーター』

ヴェーダンタ哲学の教典として、最も易しい言葉で説かれているものは『バガヴァッド・ギーター』です。

ヴェーダンタ哲学の教えはたった一つ「私はブラフマン」だと説きましたが、どのように実践したらこの真理を知ることができるのかは、昔からの大きな課題です。

ギーターの中では、より具体的に複数のヨガとして実践方法が説かれています。

ギーターに書かれた、複数のヨガから自分の道を見つける

例えばカルマ・ヨガ(行為のヨガ)であれば、あらゆる行動をするときに「自分の利益のため」というエゴを捨てて、「世界全体の秩序のため」と、大きな視野で考えるようにします。

慈善活動を行っているときも、「他者のため」という自己犠牲の精神であれば、それはよくありません。世界は自分にとっても、他者にとっても、平等に快適なものであるべきです。平等に世界を見れることが、結果的に自分にとっても心地よい世界を作り出します。

例えば、消費しすぎる社会は、人の物欲によって自然から奪いすぎて世界全体のバランスが壊れてしまいます。

このようにヴェーダンタ哲学の教えを取り入れることで、自分にも世界にも優しい人になれるのではないでしょうか。

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