こんにちは、丘紫真璃です!猛暑の夏もいよいよ終わり、秋の気配が近づいてきましたね。
今回は、夏を振り返ろうということで『キツネ山の夏休み』を取り上げたいと思います。
この本は、日本を代表する児童文学作家であり、小学館文学賞や、日本児童文学者協会新人賞など、ここには書ききれないほどたくさんの賞を受賞されている富安陽子さんの作品で、第41回青少年読書感想文の課題図書にもなりました。
キツネや、山姥、オニ、竜など、富安さんの描く世界にはたくさんの妖怪たちが当たり前のように顔をのぞかせるのですが、この作品にも、水グモの精や、猫又、キツネなど数々の妖怪たちがイキイキと登場します。
そんな主人公と妖怪たちの織り成す夏の物語とヨガに、どんな関係があるというのでしょう?早速、主人公の弥と共に、キツネ山の夏休みに飛び込んでいってみましょう!
輝く夏休みをもう一度味わえる『キツネ山の夏休み』
『キツネ山の夏休み』は、1994年に富安陽子さんが書いた作品です。挿絵も富安さん自身が手がけたそうで、富安さんの頭の中に繰り広げられたキツネ山の光景を、本文だけでなく、挿絵を通じても、イキイキと知ることができます。
この本のあとがきに、富安さんはこう書いています。
このお話を書きながら、私は昔々の夏休みのことをたくさん思い出しました。セミの声の中に満ちてくる朝の気配、軒端から差し込む眩しい夏の光、縁日の夜のざわめき……。その一つ一つを楽しみながら、この物語を書きました(『キツネ山の夏休み』あとがき)
猛暑の夏が毎年続く今、むしろ懐かしい気がする一昔前の小学生の夏休みが、この本の中にそっくりそのまま閉じ込められています。輝く夏休みをもう一度味わいたい大人の方にも、オススメの一冊です。
弥の前に現れる妖怪たち
主人公の弥は小学四年生の男の子。稲荷山のおばあちゃんの家で夏休みを過ごすため、弥が一人で駅のホームに座っている場面から、物語は始まります。
駅のホームにポツンと座る弥のそばに、背の高い女の人がやってきます。そして、稲荷山に行くのならば、稲荷山に住む妹の家に手紙を届けてほしいというのです。
それは困ると弥は言ったのですが、女の人は手紙を残したまま、どこともなく姿をかき消してしまいました。小さいホームなので、隠れる場所なんてないはずなのに、魔法のように消えてしまったのです。
それを皮きりに、弥の前に次々におかしな人たちが現れます。稲荷山に向かう電車の中で乗り合わせた「オキ丸」という名前の男の子は、電車がトンネルに入ったとたん、スッとかき消えてしまいます。
稲荷山の駅につくと、「おばあちゃんの知り合い」だと名乗るおじさんがいて、おばあちゃんの家まで連れて行ってくれましたが、おばあちゃんの家まで来た時、やはり、その人も、かき消えてしまいます。そばにいたのは、太った黒っぽいしま猫だけ。
出会った人が次々にかき消えてしまうのに驚いた弥は、思わずこうつぶやきます。
まただ。これで三人め。また消えちゃった。なんにもいわずにいっちゃうなんて、まったく、どうなってんだろ(『キツネ山の夏休み』第二章)
そんなおかしな出来事から、弥の稲荷山での夏休みは幕を開けます。そして、稲荷山で夏休みを過ごすうちに、初日に出会ったおかしな三人はみんな、人間ではなかったのだということを、弥はだんだん知っていくことになるのです。
例えば、電車の中で乗り合わせた男の子「オキ丸」。その正体は、稲荷山のてっぺんの稲荷神社にまつられている108匹のキツネの中の一匹でした。その後、オキ丸は、弥の前に男の子のかっこうでフラリと現れて、弥を連れて夜空を飛んだり、どろぼうをだまして捕まえるというスリリングな冒険に連れていってくれたりします。
弥に手紙を渡してほしいと頼んだ、背の高い女の人の正体は水グモの精でした。妹の水グモの精と手を組んで、弥を食べてしまおうというとんでもなく悪い計画を立てていたのです。
そんな悪い水グモの精から危機一髪、弥を救ってくれたのは、おばあちゃんの家に出入りしている太った黒いしま猫の大五郎でした。大五郎もまた、ただの猫ではなく猫股で、ペラペラと人間の言葉をしゃべったり、人間に化けたりするのです。
そう、弥が稲荷山に来た初日に、駅のそばまで出迎えてくれたおじさんは、人間に化けた大五郎だったのです。
そんな具合に、弥の前には次々に妖怪が現れます。弥はおどろいたり、目を白黒させたりしながら、稲荷山の輝く夏の中で、妖怪たちと不思議な事件にかかわっていくのです。
弥のおばあちゃんはキツネの頭領!?
弥は、稲荷山の夏の一日一日を、稲荷山に分け入り、虫とりにむちゅうで過ごします。そんなある日、フラリと稲荷山のてっぺんの稲荷神社に来た弥は、本殿の扉がめずらしく開いていることに気がつきます。
神主さんが、本殿に風を通していたのです。神主さんは、弥を気軽に本殿の中に入れてくれ、本殿の奥に飾られている「榎稲荷縁起図」という大きな絵を見せてくれました。
その絵には、108匹の伝説のキツネ達の絵が描いてあり、神主さんはその伝説ギツネの頭領「オショロギツネ」の伝説をいろいろと弥に話してくれます。
一説によると、オショロギツネは大昔、安部安奈というおさむらいの女房に化けて、男の子を一人産んで暮らしたということ、その子が後に安部清明というえらいおさむらいになったんだということなど。そして、弥にこう言います。
力の強い……というか、魔力の強いキツネは、何度でも人間に化けて、人の世に生まれかわるものと、古くからしんじられておるんだ。(略)
何百年、何千年ものあいだに、何回でも人の世に生まれかわるということだな。だから、オショロギツネもあんがいいまごろは、この町のどっかで、べっぴんさんに化けて、すまして暮らしとるかもしれんぞ(『キツネ山の夏休み』第十章)
そんな話を聞きながら、キツネ達の絵を見ていた弥は、それぞれのキツネ達の横に漢字で名前が書いてあることに気がつきます。そして、オショロギツネの横に「於松」という字が書いてあることに目をとめます。
神主さんによれば、その字は「オショウ」と読み、オショウがなまって「オショロギツネ」と呼ばれるようになったのだということですが、弥は考え込んでしまいます。
なぜって、その字は「オマツ」とも読めるからです。「オマツ」といえば、伝説ギツネのオキ丸が、弥のおばあちゃんを呼ぶ時のよび名と同じでした。弥のおばあちゃんは、「安部松子」というのですが、オキ丸は、弥のおばあちゃんのことをいつも、お松ちゃん、お松ちゃんと、まるで昔からの友達のように、とても親しげに呼んでいたのです。
やっぱり、なんだかひっかかります。オキ丸が口にした「お松ちゃん」という名前のひびき。あの、いかにも親しげなよび方……。
そのよび名が、この絵にしるされたオショロギツネの名とおなじだというのは、なんともふしぎなぐうぜんです。(『キツネ山の夏休み』第十章)
さらに、オショロギツネが昔、化けていた女の人の苗字も安部だったことを思い出し、弥はこんなにもふしぎなぐうぜんが重なるのは、どうしてだろうと考えずにはいられなくなってしまいました。
安部松子……。安部のお松ちゃん……。
弥は心の中で何度も何度も繰り返してつぶやき、もしかしたら、自分のおばあちゃんは、オショロギツネが化けたすがたなんだろうかと、そんなことまで思ってしまいます。
オショロギツネは、べっぴんさんに化けて、この町のどこかですまして暮らしているかもしれないと神主さんは言いましたが、弥のおばあちゃんも昔、稲荷山小町と呼ばれるくらいのすごい美人だったのです。
おばあちゃんが、キツネだなんてばかげてる……と思いながらも、キツネのオキ丸や、猫股の大五郎が、おばあちゃんのことを気に入っているらしいのは、おばあちゃんがふつうの人じゃないからだろうかと思ったりもしてしまいます
また、オキ丸が弥となかよくしてくれたのも、猫股の大五郎やら、水グモの精が次々に弥の前に現れたのも、自分が妖怪ギツネの孫だからなんじゃないか……なんて思ったりもして、ドキドキしてしまうのです。
人間も妖怪も、その本質はみんな同じプルシャ
とうとうがまんできなくなった弥は、おばあちゃんの家にふつうの猫のふりをして出入りしている猫股の大五郎に質問をぶつけます。
だってさ、きみも、オキ丸も、どうして山の妖怪が、おばあちゃんをこんなにひいきにするのさ。おばあちゃんがふつうの人なら、そんなことってないんじゃないのかな。
ぼく、この前、榎稲荷で百八ぴきのキツネの絵を見たんだ。先頭のオショロギツネには、「於松」っていう名前が書いてあった。(略)オキ丸は、おばあちゃんのことを、お松ちゃんっていうよ。だから……つまり……だから……」(『キツネ山の夏休み』第十二章)
すると、大五郎はしっぽをぱたりとふりながら、落ち着き払ってしずかに言うのです。
わしがここにやってくるのは、ただ松子さんがすきだからですよ。あなたのおばあさんが猫股だろうが、化けギツネだろうが、人間だろうが、そんなことは関係ない。
その人のことがほんとうにすきだとわかってさえいれば、あとはどうでもいいことです。毛がはえていようがいまいが、足が二本だろうが四本だろうが、化けようが化けまいが。ちがいますか?(『キツネ山の夏休み』第十二章)
弥は、大五郎の言ったことをよくよく考え、その通りだとも思います。
弥は、キツネの妖怪のオキ丸も、猫又の大五郎とも友達になって、すきになりました。そして、おばあちゃんのこともやっぱりすきでした。
いつも、家じゅうをぴかぴかにみがきあげているおばあちゃん。だれもいない家の中で、こっそり弥におこづかいをくれるおばあちゃん。輪投げがとくいで、料理のじょうずなおばあちゃんが、やっぱり弥は大すきでした。
よくよくしっているつもりだったお父さんが、ほんとうは、弥のしらないやんちゃぼうずの顔をかくしていたように、もしおばあちゃんの正体がオショロギツネだったとしても、それは大さわぎするほどのことではないのかもしれません(『キツネ山の夏休み』第十二章)
おばあちゃんが結局、オショロギツネかどうかわからないまま、弥はおばあちゃんと共に、夏休みの最後に稲荷山で行われるビックイベント「山送り」というお祭りに出かけます。この「山送り」のお祭りを盛大に行って、稲荷山の人々は、すぎていく夏を送るのです。
稲荷神社で人間達が、「山送り」を行っている間、稲荷山の山奥では、キツネ達がキツネの「山送り」を行っています。
弥の前にフラリと現れたオキ丸が、弥をキツネの山送りに連れていってくれるのですが、弥が見ると、キツネ達はしっぽに青白いキツネ火をともして、山奥の池を囲んでいました。そして、静かに唱えているのです。
「松風よ、まいれ」
すると、遠い山の上から、不思議な風が吹いてきます。その風のざわめきの中には、セミたちの声や、流れる谷川の音、盆踊りの太鼓の音、笛の音、町のざわめき、子どもらのわらい声、風鈴のひびき、夕立の声が混じっていました。その不思議な風に耳をすませ、キツネ達を見回しながら、弥の胸にはある思いがふくらんできます。
キツネも、猫股も、チョウも、セミも、トンボも……。ぼくたちは、みんなおなじ夏の中にいたんだ……(『キツネ山の夏休み』第十三章)
キツネも、猫股も、チョウも、セミも、トンボも、大した違いはないのです。毛があるとかないとか、化けられるとか化けられないとか、二本足だとか四本足だとか。
そんなうわべの違いを全部はぎとってしまったら、結局はみんな、同じ一つのものになるのです。そんなうわべの違いをはぎとった後に残るもの…… それは、ヨガでいうプルシャだといえます。
キツネも、猫股も、チョウも、セミも、トンボも、弥も……みんな同じなのです。弥は、そのことを同じ稲荷山の夏を妖怪や、虫たちと共に夢中で過ごしたことで、自然に感じ取ったのです。
弥の心は、キツネ達の心ととけあっていき、弥はキツネ達の夏を送る合唱に大声でくわわります。
キツネの山送りが終わった後、オキ丸は稲荷神社まで、弥を送り届けてくれます。稲荷神社に帰ってきた弥は、おばあちゃんを探して走ります。そして、お祭りの人ごみをかきわけて、おばあちゃんに飛びつき、心からさけぶのです。
おばあちゃん……。おばあちゃん、ぼくね、この町が、この山が、それからおばあちゃんが大すきだよ(『キツネ山の夏休み』第十三章)
おばあちゃんが、オショロギツネだったかどうか、そのことは弥も読者もはっきりとわからないまま、物語は幕を閉じます。でも、そんなことはどうでもいいことなのでしょう。人間だろうが、化けギツネだろうが、大した違いはないのですから。そう、みんな同じプルシャなのですから。
人間だとか、妖怪だとか、虫だとか。私達が心の中で勝手に引いている境界線は、この本を読みながら、自然になくなってしまいます。
人間とか妖怪とか、そんな細かいことはどうだっていいことだよね、と猫股の大五郎と共に言いたいような気持ちになっているのです。
それこそ、ヨガの目指すところなのではないでしょうか。ヨガの大きな目的は、うわべの違いではなく、プルシャそのものを見るというところにあるのですから。
この本を閉じる時、私達の胸に広がるのは、稲荷山のまぶしい夏の輝きです。弥がキツネや猫股、セミやトンボたちと過ごした十歳のただ一度きりの夏が、私達をすっぽり包み込んでくれるのです。
参考資料
- 富安陽子著、『キツネ山の夏休み』あかね書房、1994年