シンデレラに見るプラティパクシャ・バーヴァナ~泣きたい時こそ、人生を楽しむ~

シンデレラに見るプラティパクシャ・バーヴァナ~泣きたい時こそ、人生を楽しむ~

みなさん、こんにちは!丘紫真璃です。今回は、エリナー・ファーションの『ガラスのくつ』を取り上げたいと思います。

『ガラスのくつ』という題名からもお分かりだと思いますが、この作品は、シンデレラの昔話にもとづいて作られました。

おそらく知らない人はいないシンデレラのストーリーそのままなのですが、シンデレラは16歳のお茶目でかわいい少女として描かれています。

まわりの人物もとにかく、とってもチャーミングで、ストーリーを知り尽くしているはずなのに、ついつい夢中で読んでしまう不思議な一冊です。こんなに楽しいシンデレラがあってもいいのかって思うくらい、とにかく面白いんです。

今回は、そんな楽しいシンデレラの物語とヨガのつながりを見ていきたいと思います。それでは、みなさん!カボチャの馬車に乗って、シンデレラの世界に行きましょう。

リズミカルなドタバタ劇『ガラスのくつ』

エリナー・ファージョンは、1881年にロンドンで生まれたイギリスの児童文学作家です。1944年、ファージョンは、シンデレラの劇の脚本を弟と合作で書き上げました。その劇は、ロンドンのセント・ジェイムズ劇場で初演されています。

その脚本にもとづいて、エリナー・ファージョンは、『ガラスのくつ』の物語を書き、1946年に本の形にして出版をしました。劇の脚本がもとになっているせいか、『ガラスのくつ』には、せりふのかけあいの楽しさもぎっしりつまっています。

そんなリズミカルなドタバタ劇のような『ガラスのくつ』は、石井桃子さんの名訳で楽しめますので、ぜひ、読んでみて下さい。

だれもが知ってるシンデレラのストーリーなのだけど

主人公はみなさんご存知のシンデレラですが、ファージョンの『ガラスのくつ』では、エラという名前で登場します。エラは16歳。本当のお母さんは亡くなり、お父さんといじわるな継母、それに、継母の連れ子の二人の姉…ミンタとスーザと共に暮らしています。

立派な部屋はいじわるな継母と二人の姉に占領されており、エラの部屋は薄暗いお勝手です。エラは、そこで下働きの仕事をさせられているのです。

シンデレラといえば、つらいのをけなげにグッと我慢して、ボロボロの服で仕事にはげむイメージですよね。エラも、ボロボロの服でお勝手仕事をさせられているわけですが、文句もいっぱいあるようで、次から次に、心の中でねがいごとを並べています。

心の中でねがいごとを並べるエラ
心の中でねがいごとを並べるエラ

あたし、おさらってものは、あぶらでにちゃにちゃになんかならなければいいと思うわ……あたしが、ただ見ているまに、はくのも、ふくのも、ゆかみがきもすんでしまってたらいいと思うわ……

それから、あたしが、よそを見てるまに、ジャガイモは、じぶんでじぶんの皮をむいてくれればいいし……ベルは、ジンジン、ジンジン鳴らなければいいし……

石炭バケツは、じぶんで倉庫にいって、石炭を持ってくればいいし……何もしなくても、テーブルにちゃんとおさらがならんでればいいし、テーブルかけにアイロンをかけたり、スプーンやフォークをみがかなくてもいいんだといいと思うわ。

みんな、手づかみでおさらの上のもの、たべればいいんだわ……あたし、ほんとにもっとおもしろいことがたくさんしたいんだわ……そして、だれかいっしょに、おもしろいことをする人がほしいわ……そして……そして……

(『ガラスのくつ』第1話より)

そんなある日、王子様の舞踏会が開かれ、国中の結婚をしていない娘全員に、招待状が配られます。みなさん、よくご存じの通り、王子様は、花よめ探しの舞踏会を開くのです。当然、エラにも招待状が来るわけですが、いじわるな継母は、エラの招待状を破ってしまいます。

国中のみんなが舞踏会に行っているのに、エラだけ行くことができない……そんなつらい状況を救ってくれるのは、親切な妖精です。妖精は魔法の力で、エラに美しいドレスを着せ、カボチャの馬車を用意してやり、舞踏会の招待状も出してくれます。

そして、ここは普通のシンデレラと少し違うところですが、エラは、「ドコニモナイ国の王女」という身分の高い人として、舞踏会に乗り込んでいくのです。

その後、王子様と恋に落ちるとか、0時には魔法がとけてしまうので家に帰らなければいけないとか、ガラスのくつを片方落としてしまうといった、みなさんよくご存じのシンデレラのストーリーが展開していき、最後は無事にハッピーエンドで終わるわけですが、私達が注目したいのは、エラのつらい時の乗り超え方にあります。

つらい時に精一杯明るく考えようとするエラ

いじわるな継母に招待状をやぶられたエラは、雪の森にたきぎを取りにいくように言いつけられます。エラは、はだしの足にやぶれたサンダルをつっかけ、もめんの服の上にショールを1枚だけ羽織るという恰好で、雪の森に出ていき、たきぎを探さなければならないのです。

それでも、なかなか、たきぎに使えそうな枝が見つかりません。こんな状況では、当然、だれだって泣き言を言いたくなる通り、エラだってやっぱり、泣き言を言うわけです。

こんなにおなかがすいていなかったら、もっとよくさがせたんだわ。(略)

もちろん、そうだわ。朝ごはんも食べなかったんだもの。だから、目がはっきりしていないのも、あたりまえよ

(『ガラスのくつ』第6話より)

それでも、エラはこう続けます。

ああ、あそこにちょうどいい切り株のいすがある。とてもきれいな、真っ白いサテンのきれがかかってるわ。そして、足はまがったぞうげでできている……

女王さまだって、こんなりっぱな玉座にかけて、朝のお食事をなさったひとなんてなかったわ

(『ガラスのくつ』第6話より)

森の中で想いにふけるエラ
森の中で想いにふけるエラ

それから、エラは、つめたい白いサテンのきれがかかっている、その切り株の玉座に腰かけて、おとうさんがこっそりくれたパンを取り出します。いじわるな継母やお姉さんたちの朝ごはんとずいぶん違い、エラの朝ごはんは、たった一つのパンだけです。それでも、エラは前向きに言います。

馬蹄形のパンだわ。これは、幸運の知らせよ。あたし、きょうは運がいいんだわ

(「ガラスのくつ」第6話より)

雪の森から帰った後、今度は、いじわるな二人の姉たちが舞踏会に行く支度をてつだわなければなりません。自分は舞踏会に行くことができないというのに、二人の姉の身支度をてつだわなくていけないなんて、普通の女の子なら誰だって、頭をのけぞらせてわめきたくなるところです。

それでも、エラは、二人の姉(ミンタとスーザ)の舞踏会の身支度や、王子様と出会った時の挨拶の練習に、とても明るくつきあいます。

「ごきげんいかがでいらっしゃいますか、王子さま」

しなしなとミンタがつぶやきました。

「王子さま」

胸の思いをわっとほとばしらせるように、スーザはいいました。

「ごきげんいかが?」

「ごきげんよう、令嬢がた」

エラは陽気に言って、ふたりにむかって、ふかく頭をさげました

(『ガラスのくつ』第10話より)

みんなが舞踏会に行ってしまった後、エラはさびしくてたまらなくなります。静まり返ったお勝手にさびしく座っていたエラは、ネズミあなから、小さなネズミが顔をのぞかせていることに気がつき、思わず、手をさしのべて言います。

「ネズちゃん、ネズちゃん」

小さな声でいって、エラはゆかにひざをつきました。

「あたしの手にのってくれない?」

けれども、せっかく出てきたネズミは、エラが近づくと、まるで小さいかげが、ほかの大きなかげにかくれるように、あなにかくれてしまいました。エラは、手をおろすと、がっかりしなかったふりをしました。

「あのネズミ、きっとネズミの夜会にいってしまったのよ。そうなんだわ。そこには、王さまネズミや、女王さまネズミや、王子さまネズミや、ほかにもたくさん、おじょうさまネズミや、女中ネズミがいて、おどりをおどっているのよ」

ひとりごとの中に出てきた、じぶんにも思いがけない、たのしげなことばが、エラを元気づけて、いろんなことを考えさせました

(『ガラスのくつ』第12話)

エラは、舞踏会に一人だけ行けない寂しさを、ネズミの夜会を想像することでちょっと元気づくことができました。そんな風に、エラは、つらい時こそ、精一杯、明るく物事を考えようとします。それは、パタンジャリも感心するくらい、ヨギー的な考え方ではないでしょうか。

つらい道の助けになるのは精一杯の「プラティパクシャ・バーヴァナ」

『ヨガ・スートラ』にこんな一節があります。

否定的想念によって攪乱されたときは、反対のもの「肯定的想念」が念想されるべきである。それが、プラティパクシャ・バーヴァナである(『ヨガ・スートラ』第2章33節)

誰かが憎らしくてたまらなくなったり、つらかったり、悲しかったり、暗い感情は誰の心にだってうずまいてしまうものです。でも、そんな時に一番大事なことは、明るくて楽しいことを考えることであると、パタンジャリは言っているわけですよね。

つらくて、悲しくて、誰かが憎らしくて、怒りでいっぱいになってしまった時こそ、何でもいいから、楽しげで明るいことを考えて、気持ちを立て直すこと。エラはまさしく、パタンジャリの言うことを実行しているわけです。

普通だったら、いじわるな継母やわがまま放題の二人の姉への憎しみで胸いっぱいになって、あいつらに復讐してやりたいと思ったってちっとも不思議はないわけです。

もう私の人生には楽しいことなんてないと絶望して自殺してしまうことだってあるかもしれません。
 それでも、エラは苦しい時こそ、自分をはげまそうとして、精一杯明るいことを考えようとするわけです。舞踏会に行けない時には、ネズミの舞踏会のことを想像して、少しでも楽しもうとするのです。

エラは、舞踏会に行く身支度をしながら、はげしくケンカをする二人の姉に言います。

「せっかくのたのしみを、だいなしにしてしまうじゃありませんか。たのしく夜会のおしたくをしましょうよ」

スーザたちは、びっくりしたようにさけびました。

「たのしくする? たのしく世の中をわたることなんかできるはずないじゃないか」

「あたしなら、できますわ」エラはいいました。

(『ガラスのくつ』第10話)

もちろん、いつでもどこでも、たのしく世の中をわたっていくことなんて、できるわけがありません。だれの人生にだって、つらいことや悲しいことがあるわけで、絶望したり、怒りでいっぱいになったり……そんなことなしですませるわけにはいきませんよね。

それでも、つらくて苦しい時こそ、精一杯楽しくしようとする……ヨガ用語を使うなら、精一杯、プラティパクシャ・バーヴァナをしようとする……それこそが、人生のつらい道を通る時のコツだといえるのではないでしょうか?

そして、それは今、誰もが苦しいコロナの世の中だからこそ、特に必要な考えじゃないかなって、私は思ったりするのです。

ファージョンの『ガラスのくつ』には、お茶目でユーモアたっぷりな等身大のシンデレラや、おかしいくらい弱気な父や、いじわるながら、あまりにもバカバカしくてプッと吹きだしたくなるまま母や姉達が登場します。

王子様でさえ、ただ立派でカッコイイ人というわけでなく、恋わずらいの様子がユーモアたっぷりに描かれていますし、王子様の伝令感や、舞踏会の司会者といったわき役たちの心情さえもこまごまと面白く描かれています。

ファージョン色のユーモアで楽しく包み込まれている『ガラスのくつ』の本を開いて、ぜひ、笑って、泣いて、思いきり、楽しんでみてください。

参考資料

  1. 『ガラスのくつ』(1986年:エリナー・ファージョン 著/石井桃子訳/岩波書店)