「一行三昧」(いちぎょうざんまい)
「一行」とは、まっすぐで分別にもとらわれない純真な心のこと。「三昧」とは、ひとつのことに集中して一心不乱に取り組むさまをいいます。ひとつのことに精神を統一しているときには、それ以外の想念など入る余地はありません。
- 仕事をする時は、仕事に専心
- 遊ぶ時には、遊びに専心
- ヨガをする時には、ヨガに専心
日々のさまざまな行動において、常に「一行三昧」であれと、禅では教えています。
禅にまつわるこんなお話
弓術に長けた漢の李将軍は、ある日猟に出かけて一匹の大きな虎に出会います。将軍は急いで矢を放ち、見事虎を仕留めました。しかし走り寄ってよく見ると、それは虎ではなく、虎の形をした岩だったのです。
堅い岩に矢がささるなんて、普通ではありえないこと。もう一度やってみようと矢を放ちますが、何度やっても矢はついに岩を通すことはできませんでした。
最初に虎と思って矢を放った時は、純粋な心で一行三昧になったため、岩に矢を射ることができたのです。けれど岩と知ってからは「硬い岩を自分の弓術で射貫いてやろう」という雑念が働き、一行三昧できなかったため、成し遂げられなかった、というお話です。
禅語における「三昧」
禅語における「三昧」は、一般的に使われている「夢中になって取り組むこと」とは意味のニュアンスが少し異なるようです。もっと厳しく、純粋であれ、と戒められているかのようです。
「三昧」は、元々はサンスクリット語の「サマディ」を意味する言葉です。ヨガ実践者にはなじみのある言葉かもしれません。「サマディ」とは、すべてのことから解放された悟りの境地を指します。禅でいう「三昧」も、それに近いものがあるでしょう。
そんな一行三昧ができるようになったら、「サマディ=悟り」の境地にたどりつけるということでしょうか。簡単なように見えて、なかなか得難い境地です。
ヨガや日常生活と禅
例えば仕事をしていても、他の仕事や別の用事が気にかかったり、ふと口寂しくなっておやつに手が伸びたり。ヨガのアーサナをしていても、今日あった出来事が脳裏に浮かび、瞑想中でもふと別の想念がわきあがってくる、など。効率よく行動しようとして、ふたつ以上の何かを同時に済ませようとすると、かえって段取りが悪くなることが多いです。
ひとつのことをひとつずつ、心をこめて取り組めるよう、まずはヨガレッスンから意識をしてみませんか。それが習慣になると、日常生活でもひとつのことをひとつずつ、心をこめて取り組めるようになるでしょう。
そして雑念がわいてきたら、心の中で唱えましょう。「一行三昧!」と。