こんにちは!丘紫真璃です。今回はジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』と『続あしながおじさん』の二冊を取り上げたいと思います。
『あしながおじさん』という言葉を一度は耳にしたという方は多いのではないでしょうか?日本でも、『あしながおじさん』という用語は、学生への援助者の意味で用いられるくらいですから、この名前は、かなりの浸透力がありますよね。
けれども、『あしながおじさん』の本を読んだことがあるという方は意外に少ないかもしれません。
まだ本を読んだことがないという方は、ぜひ、本屋さんに走っていって、注文をなさって下さい。お金をムダに使ってしまったと後悔はなさらないはずですよ。
バツグンに面白くて、楽しめること受け合いですから!と、先に本の宣伝を一生懸命してしまいましたが、とにかく今回は、あしながおじさんとヨガの関係について、みなさんと考えていきたいと思います。
『あしながおじさん』を残して世を去ったジーン・ウェブスター
『あしながおじさん』を書いたジーン・ウェブスターは、マーク・トウェインの姪の娘に当たります。
マーク・トウェインといえば、『トム・ソーヤーの冒険』で知られており、このコラムでも彼の名作『ハックルベリー・フィンの冒険』を紹介しましたが、とにかく、アメリカを代表する名作家です。その姪の娘に当たる人ですから、文学的才能があるということにもうなずけますね。
感化院や孤児院を視察して社会事業に深い興味を持っていたジーン・ウェブスターは、1912年、その視察の経験を活かして書いた『あしながおじさん』を発表。これが非常に評判となりましたので、1915年『続あしながおじさん』を発表しました。
ところが、翌年の1916年、女の子を早産したことから産褥熱(さんじょくねつ)にかかってしまい、39歳という若さで世を去りました。
あしながおじさんへの手紙
『あしながおじさん』の主人公は、17歳の少女ジュディー・アボットです。ジョングリアホームの最年長孤児なのですが、もうすぐ孤児院を出なくてはなりません。
そんなジュディーには文学的才能があり、彼女が学校の宿題で書いた「ゆううつな水曜日」という作文が、ジョングリア・ホームのある評議員の目に留まります。
その作文が非常にユーモアに富んでいて優れているということで、その評議員は彼女が大学に進学するための資金を援助してあげようと申し出てくれるのです。彼女を大学で学ばせ、作家に仕立てるつもりだと彼は宣言したのです。
しかし、その条件として、その評議員はおかしなことを言います。一つ目の条件は、彼の本名をジュディーに明かさないこと。二つ目の条件は、ジュディーは、その人に毎月、大学生活での様子を事細かに手紙に書いて書き送ること。そして、その手紙に対する返事は期待してはいけないということでした。
ところで、ジュディーは、本名を明かさない謎の人の後ろ姿だけ見ていました。
そして、その人の足がとんでもなく長いということがわかっていたので、彼女は、その謎の人に、「あしながおじさん」という愛称をつけたのです。 こうして、ジュディーは、あしながおじさんに、毎月、手紙を書き送ることになりました。
『あしながおじさん』の物語は、この手紙によって構成されています。読者は、あしながおじさんと共に、笑いとロマンスに彩られたユーモアたっぷりのジュディーの手紙を読みながら、彼女の四年間の大学生活での成長を追いかけることになるのです。
小さなことにも、喜びを見いだせる豊かさ
ジュディーの手紙は、大学生活の様々なことがユーモアたっぷりに書かれていて、面白くどんどん読めてしまうのですが、ここで私達が注目したい点は、彼女が何でもない小さなことに、どんなに喜んだり驚いたりしているかということにあります。
今まで孤児院で過ごしてきたジュディーには、私達には当たり前と思われることも、全く当たり前ではないのです。
孤児院から大学への汽車の旅や、初めて一人で部屋を持てる嬉しさ。本物のお金で好きなものを買える喜び。
汽車に乗ったこともなければ、一人部屋を持ったこともなく、本物のお金さえ持ったことがないという孤児のジュディーにとって、全てが目もくらむような経験なのです。
わたし、大学が大好きです。それから、ここへよこしてくださったおじさんも大好き。とってもとってもしあわせで、一瞬一瞬が興奮の連続で、ほとんど眠れないくらいです。
ここがジョングリア・ホームとどれほどちがっているか、とても想像のつくものではありません。わたし、この世にこんな場所があるなんて、夢にも思っていませんでした
(『あしながおじさん』)
ジュディーは手紙にそう書き、友達も、先生も、授業も、校庭も、食べる物も、みんなどんどん大好きになると興奮して、書き綴ります。そして、あしながおじさんが送ってくれたお小遣いで買った服について、こう続けます。
すてきな、新しい洋服が六着も。みんなわたしのものなんです。大きい人からのおさがりじゃないんです。
このことが、ひとりのみなし子をどのくらい有頂天にさせたか、たぶんおわかりにならないでしょうね?(略)
学校へ来させてもらえることもすばらしいけど、新しい服を六着も自分のものにするという目もくらむような経験にくらべれば、どうっていうこともありませんわね
(『あしながおじさん』)
年がら年中、青チェックのギンガムの服か、おさがりの服しか来たことがないジュディーにとって、新しい服を自分のものにするという経験は、途方もないことだったのです。学校に来させてもらった歓びも吹き飛ぶくらい、素晴らしいものだったのです。
夜に叱られずに好きな本を思う存分に読めることや、冬の休暇中、友達と街にくりだしてレストランで食事をすること。その全てをジュディーは愉快がります。
そういう風に愉快がることができるわけを、ジュディー自身、こんな風につづっています。
わたしの友だちの中には、自分がしあわせだということにさえ気づかないでいる人が大ぜいいます。そういう心の状態に慣れきっているので、感覚がまひしているんです。
その点、わたしなどは、毎日毎日、片時も忘れることなく、自分がしあわせであることをじっくりかみしめていられるんです。これからだって、決していまの気持ちを忘れません。たとえ、どんな不愉快なことにぶつかろうとも。
そうです。どんな不愉快なことでも(歯痛でも)一つのおもしろい経験として、身をもって体験できたことを喜べばいいではありませんか
(『あしながおじさん』)
そう書き綴って、休暇中に出かけた田舎暮らしや、クリスマスプレゼント、友達とのおしゃべりや、大学での授業の全てがどんなにキラキラ輝いているか、ジュディーは手紙の中に、しあわせたっぷり書きつづります。
この世には、どこにでもしあわせがころがっているんです。みんなに分けてもまだ余るくらい。ただ、いき会ったときに、自分のほうからすすんで、それを受けいれさえすればいいんです。秘訣は「受け入れる心」これだけです
(『あしながおじさん』)
ジョングリア・ホームでの悲しい経験を経てきたからこそできるジュディーの物の見方は、うまくいくことばかりではない世の中を幸せに生きるコツなのかもしれませんね。
ところで、このジュディーですが、大学生活の中でジャービス・ペンドルトンという素敵な足長の紳士と恋に落ちます。
そして、ラストのラスト、このジャービス・ペンドルトンこそ、何を隠そう、あしながおじさんだったということがわかり、二人の結婚で「あしながおじさん」の幕は閉じます。
当たり前の日常にこそ、幸せが溢れている
『あしながおじさん』は、孤児のジュディーが世の中を見ていくという物語でした。孤児のジュディーならではの視点で、当たり前の生活の中の幸せを見出していくというお話で、ヨガと深くつながっていました。
『続あしながおじさん』は、真逆の物語です。ジュディーの大学時代の親友であるサリィという裕福なお嬢さんが、孤児院の院長となり、悲惨な孤児院の現状を改革しようと奮闘する物語です。これはこれでまた、ヨガとつながっているんです。
『続あしながおじさん』の主人公は、先ほども言いました通り、ジュディーの大学の親友サリィですが、彼女は暖かい家庭で何一つ不自由なく育ったお嬢さんでした。そんなサリィに、ジュディーが、ジョングリア・ホームの院長になってみないかともちかけます。
ジュディーの頼みに応じて、ジョングリア・ホームにやってきたサリィは、孤児院の現状に驚愕します。それはちょうど、ジョングリア・ホームから、大学に移ったジュディーがその生活を夢のようだと喜んだことと真逆でした。
ジュディさん、私ほんとうに、この世にこんなに何もかもみにくい汚い場所があるなんて、少しも知りませんでしたのよ。
この幾列も幾列も並んでいる蒼ざめた顔をした生気のない青い制服を着た子供たちを見た時に、何もかもが余りに物凄い事ばかりなので、私は突然はげしいショックを受けて危なくその場にくずれ伏してしまいそうになりました
(『続あしながおじさん』)
サリィは孤児院の院長の仕事を早く辞めたいと言いつつも、家族や兄弟、栄養のある食事やおやつ、自分の服といった自分が当たり前だと思っていたものを持っていない孤児たちのために奮闘します。
そして、社交界のおしゃれな夫人や、大学時代の友人達、兄や、兄の友人達といった人達を次々に孤児院の事業に巻き込んでいき、大改革を起こします。
そういった大改革を通して、サリィは、今までの自分の生活を見直します。困った時に後ろ盾になってくれる家族や親戚や兄弟がいるということ、大勢の友人がいるという幸せに気がつき、サリイは次第に変わっていくのです。
今度私の生活がどんなに変化しても、ここで得たすばらしい経験のおかげで私はきっと更に有益な人間になれると思います。(略)
ここでは毎日とても新しいことを沢山おぼえますので、毎週土曜日の晩に前の土曜日のサリィを、彼女がどんなに無知であったかに呆れるのです
(『続あしながおじさん』)
そうして徐々に変わっていったサリィは、最初はとても嫌がっていた孤児院の仕事に生きがいとやりがいを感じるようになり、毎日に幸せと喜びを見出すようになっていくのです。
孤児院の仕事に没頭することはサリィの瞑想であったと、パタンジャリなら言うことでしょう。
『あしながおじさん』、『続あしながおじさん』、どちらもとても面白く、読んだ後に何か大切なものが心の中に残る物語です。それは、当たり前の生活が当たり前ではないということの気づきなのかもしれません。
コロナで当たり前の生活が当たり前でなくなった今こそ、ジュディーやサリイの手紙に笑ったり、ホロリとさせられたりしてみませんか。
『あしながおじさん』と共に、『続あしながおじさん』もぜひ、書店で注文してお読みください。つまらなかったとガッカリすることはないと思いますよ。
参考資料
- 『あしながおじさん(1970年)』ジーン・ウェブスター著 坪井郁美訳(福音館書店)
- 『続あしながおじさん(1961年)』ジーン・ウェブスター著 松本恵子訳(新潮社)