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ヨガマットの上で行うヨガの練習が深まってくると、ヨガの教えをもっと人生に活かしたいと思う方がとても多いです。その時におススメしたい教典がバガヴァッド・ギーターです。ギーターの中ではクリシュナ神がいくつものヨガの種類を説いています。
今回はギーターの中のヨガの種類についてご紹介します。その中から自分に合うヨガとは何かを考えるキッカケにしていただければ嬉しいです。
バガヴァッド・ギーターの中のヨガの種類
ヨガとは特定のアーサナや呼吸法、瞑想をすることではありません。私たちがヨガだと思っているそれらの実践は、ヨガの道の1つに過ぎず、同じ到達点を目指していれば自分の性格や環境にあったどのような方法を実行しても同じような成果を得ることができると考えられています。
ヨガとは登山のようなものです。
同じ山の頂上を目指していても、ある人はロック・クライミングを行いながら真っすぐに厳しい道を進むことを楽しめるでしょうし、ある人は持久力があるので山の周りをぐるりと回りながら時間をかけて登ります。歳をとって体力がないけれどお金がある人は、ロバに乗って山を登ることができるでしょう。
ヨガも同じです。自分の心か自由で快適になるために、自分自身を知るためには何が必要かを考えてみましょう。
ギーターで紹介される4つのヨガ
まずは、どのようなヨガがあるのかを見ていきましょう。
- カルマ・ヨガ(行為のヨガ)
- ギャーナ・ヨガ(知識のヨガ)
- バクティ・ヨガ(神への信愛のヨガ)
- ラージャ・ヨガ(瞑想のヨガ)
ここに書いた4つのヨガは、ヨガマットの外の日常生活で心がけることによって大きな効果を感じることができます。1つだけを集中して実践しても良いですし、他のヨガやアーサナの練習と組み合わせながら行っても有効です。
それぞれのヨガについて詳しく見ていきましょう。
カルマ・ヨガ(行為のヨガ)で日常をヨガにする
カルマ・ヨガはギーターの第3章に説かれているヨガで、ギーターの中では最も日常生活に活かしやすいヨガです。
カルマとは「行為」や「行い」、「業」と訳すことができます。私たちの人生は、私たちの行動の積み上げによって作られています。だからこそ、自分自身の行動を変えていくことによって自分の人生を大きく変えることができます。
インドで行われているカルマ・ヨガ
インドのアシュラム(ヨガの修業道場)などでは、カルマ・ヨガとして奉仕的な活動をすることが多々あります。
例えばヨガの聖地リシケシにあるシヴァナンダ・ヨガアシュラム(Divine Life Society)では、住み込みの修行僧にそれぞれカルマ・ヨガとしての役割が与えられます。
掃除をする人、食事を作る人、庭の手入れをする人、ヨガのクラスを行う人などなど、それぞれに与えられた役割は違いますが、どの仕事を行っていても自分のヨガの修業として行います。
また、アシュラムの敷地内には無料の介護施設や病院もあります。そこでは修行僧たちが病で苦しんでいる人たちの看護を自身のヨガとして行っています。
カルマ・ヨガは、何をするかが重要ではありません。行為を行う時に、結果への欲や執着を手放して行うことが大切です。
「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。(バガヴァットギーター2章48節)」
私たちの大きな苦悩は、未来への不安です。ヨガのアーサナを練習している時であっても、「いつかこのポーズできるようになるのかな?」と考えながら練習していてはその瞬間を楽しむことができません。
結果への執着を手放して行為をし続けることで、今その瞬間を楽しむことができます。
アーサナであれば、その瞬間の深い呼吸や身体の感覚を楽しむことが大切。同様に、掃除をしている時には部屋が綺麗になるのと同時に心身が軽やかになる感覚を味わうことができます。
カルマ・ヨガは、何か特別なことをする必要はありませんが、少しだけ自分の生活の中にカルマ・ヨガの時間を区切って設けてみると、より効果を感じやすいです。
例えば、毎週月曜日は普段よりも20分早く出社して、デスク周りを徹底的に綺麗にする時間にしてみます。その瞬間だけでも、とても気持ちが晴れやかになるのを感じることができるかもしれません。
それが習慣になると、日常で行っている様々なことをカルマ・ヨガ的な感覚でできるようになってきます。
ギャーナ・ヨガ(知識のヨガ)で世界の見方を学ぶ
ギャーナ・ヨガとは、真実について学ぶことです。
ヨガでは、真実を知らないこと、無知こそが最も大きなクレーシャ(煩悩)だと考えられています。世界を正しく見ることができれば、苦しみを生み出さない生き方にシフトすることができます。
ヨガを行っていても、知識なしに実践していれば、正しい効果を得ることができないかもしれません。例えば、ヨガの目的を知ることはとても重要です。
ヨガが好きで、よりヨガと深く繋がりたい人が、ヨガのティーチャーズ・トレーニングを受けけます。しかしコースが始まると、多くの人が上手くポーズをとれないことや、上手にガイドができないこと、生徒を集められられない不安で悩んでしまいます。
ヨガは本来、今この瞬間を楽しむことを学ぶためのツールですが、ヨガ自体が目的になった瞬間に逆に苦悩を生んでしまう場合もあります。そのように悩むことで人は学ぶこともできるので、決して無駄な時間ではありません。
しかし、その感情に支配されないようにしましょう。自分がヨガを深めたいと思った理由を忘れないことは大切ですね。
ギャーナ・ヨガで学ぶべきこと
ヨガの教典はいくつかありますが、どの教典を選んで勉強しても実践に即した知識が記されています。ヨガは、実際に体験することで初めて生きた知識となります。
例えば、ヨガ・スートラを例にとると、第1章の2節にて、ヨガとは心の働きを制止することだと説かれ、3節目では、心の働きが止まることで真の自分であるプルシャ(真我)が独立した状態になると書かれています。
つまり、ヨガ・スートラのヨガでは、思考や感情に支配されない本来の自身を体験することが目的です。
これが分かっていないと、難解なアーサナを競ったり、サマディ(三昧)という瞑想体験に執着してしまう危険性があります。
バクティ・ヨガ(神への信愛のヨガ)で感情を育てる
バクティとは神への信愛を意味します。
ギーターでは、このバクティをとても大切なものとして書かれています。特にギーターの中のバクティはクリシュナ神に対して向けられたものであるため、とても宗教的な実践だと考えられてしまうこともあります。
本来バクティとは、私たちの感情を豊かにしてくれるものです。たとえヨガが健康やストレスに良いと聞いても、本人のやる気がなければ、それは無価値な情報になってしまいます。
特に、日常生活で疲弊している人ほど変化を求めるのが億劫になりがちで、良い情報があっても受け取ることができません。
バクティ・ヨガでは、純粋なものに触れることによって、心地よく生きたい、幸せを感じたいという感情を育てます。バクティ・ヨガの実践でもっともポピュラーなものはキルタンです。
神聖な音の波動を持った神の名前やマントラを周りの人たちと一緒に唱えることによって、自分自身が神聖なものと一体になる感覚を味わうことができます。
そうやって、穏やかで幸せな感情を育てることによって、カルマ・ヨガやギャーナ・ヨガの効果を高めることもできます。
自分の本質に向き合うラージャ・ヨガ(瞑想のヨガ)
ギーターの6章はラージャ・ヨガ、またはディヤーナ(瞑想)の章として知られています。
ヨガの瞑想は、自分の本質に気づくためのものだと考えられています。普段、自身の身体や思考によって覆い隠されているけれど、それらへの意識を手放したときに感じることができる自身の本質をプルシャ(真我)やアートマン(個の根源)と呼びます。
このプルシャ、もしくはアートマンは、他のヨガでも気づくことができますが、瞑想は最もダイレクトに自己の真実に向き合う実践方法です。
瞑想を行うためには、ヨガ・スートラで説かれている8支則が極めて有効です。アーサナや呼吸法の練習をしている時でも、瞑想に繋がる実践であることを理解していると、練習の意識がとても高まります。
日常に取り入れやすいヨガを見つめましょう
このように、ヨガの実践方法は一つではありません。
ある人は、本を読むとすぐに眠くなってしまうので、もっと実践的なヨガが向いているでしょう。またある人は、理解することでスッキリと迷いなく行動できるので、先に知識のヨガを行った方が効果を感じられる人もいます。
他人のヨガと自分のヨガを比べる必要はありません。自分にとって快適なヨガを見つけて、自身のヨガをじっくりと深めていきましょう。