こんにちは。丘紫真璃です。今回は、以前もこのコラムで取り上げた宮沢賢治に再び登場してもらいたいと思います。
前回は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を取り上げたのですが、今回はまた童話作家とは違う宮沢賢治のことをみなさんにご紹介します。
宮沢賢治が童話作家であると同時に、天性の詩人であり、科学者であり、農学校の教師であり、地質学のプロであり、また百姓もやっていたということを、皆さんご存知でしょうか?
農学校の教師を自らやめて、百姓の道を選んだという宮沢賢治。貧しく厳しい百姓の世界に自ら飛び込んでいったその覚悟の裏に、ヨガの世界観と深くつながる賢治独特の思想が見えてきます。
今回は、宮沢賢治の童話作家としての顔ではなく、百姓をすることを通して世界をより明るいものに変えようともがいた宮沢賢治のことを、みなさんと見ていきます。
社会的被告?とまで自分を責めていた宮沢賢治
1896年に宮沢賢治は、岩手県花巻市に生まれました。
賢治が生まれ育った家は、質屋と古着屋を兼ねた商店で、花巻地方では有数の富裕な家だったといいます。賢治の父、政次郎はのちに「私が仏教を知らなかったら、三井・三菱くらいにはなれましたよ」と言っていたというくらい商才のある人でした。
かなりのお金持ちだったようですね。そのため、宮沢家は、近村にたくさんの小作地を所有しておりました。貧しい小作人たちは、宮沢家の顧客になるよりほかなかったのです。
それが賢治の苦しみでもありました。貧しい小作人たちが、宮沢商店に衣類を質入れにくるような時、賢治はいつも泣いていたといいます。自分が店番をまかされた時には、頼まれるがままにお金を貸していたため、お父さんにいつも怒られていたということです。
それほど嫌な父の商売でありながら、その父の金で食べ、着物を着、教育を受けている自分は何と罪深いんだろうという意識が、根本的に賢治の中にあったわけです。
後に賢治は、知人宛ての手紙の中で「何分にも私はこの郷里では財ばつと云われるもの、社会的被告のつながりにはいってゐるので…」と書いているくらい、とにかく自分という存在そのものが罪深いと常々思っていたのですね。
賢治は長男でしたので、本来ならば稼業を継がなければならないところでした。しかし、父との激しい争いの末、家業を継がない道を進んだ賢治は、花巻農学校の教師になります。
6年間教師生活を続けた後、依頼退職をした賢治は、賢治ファンの間では伝説にもなっている百姓生活に飛びこんでいくことになるのです。
羅須地人協会と賢治の本当の百姓生活
花巻農学校の教師を退職した賢治は、妹のトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り住み、自給自足の生活に入ります。
近くの畑でトマト、セロリ、アスパラガス、チューリップ、ヒヤシンスなどを育ててはリヤカーに乗せて売り歩いていたそうですが、賢治が金持ちの息子だということは百姓たちの間でも有名だったため、まさか、真剣に商売しているとはだれも思わなかったそうです。
そのため、百姓たちはお金を払わずに野菜を持っていってしまったといいます。
そんな苦労の傍ら「羅須地人協会」を設立。近くに住む若い農民たちを集めて、肥料や土壌の講義や、「農民芸術」の講義を行います。
また、レコード鑑賞会を開いたり、童話の朗読劇を開いたり、はたまた、農民たちによる楽団を結成して自らもチェロを弾いてみたりと、そこでいろいろな活動を試みていたようです。
しかし、「羅須地人協会」の活動は、若い農民たちには理解があったものの、年長のお百姓さん達にはなかなか理解されなかったようです。
また、岩手日報に、羅須地人協会の活動が掲載されたことがきっかけで、警察に目をつけられ、若者に社会主義の教育を行っているのではないかと疑われて、わずか二年ほどで「羅須地人協会」は活動を停止せざるを得なくなりました。
『農民芸術概論綱要』からわかる宮沢賢治の主張
賢治は、「羅須地人協会」で、農民芸術の講義をするために「農民芸術概論概要」を執筆しています。「羅須地人協会」は、わずか二年ほどしか続かなかったものの、この文章は後々、有名になりました。
そして、この文章の中にこそ、賢治が百姓生活に飛びこんで見出したかったものがいったい何だったのか、その思いと思想がにじみでているのです。
おれたちはみな農民である。ずいぶん忙しく仕事もつらい。もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
ー『農民芸術概論概要』より
この出だしではじまる文章を、みなさん一度は耳にしたことがないでしょうか。この文章は次のように続きます。
かつてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きていた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗いー『農民芸術概論概要』より
古代の人達は畑を耕し、豊作を祈って神に向かって歌ったり舞ったりしました。大昔から人は芸術と共に生きてきたのです。歌も踊りも、洞窟壁画も、土器の彫刻も全ては神への祈りでした。どの人もみな、神様と芸術と共に生きていたのです。
けれども今、それはなくなりました。人は神に向かって祈り、歌い、舞わなくなりました。近代科学の発達につれ、神を信じなくなったからです。
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに贖うべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造があるー『農民芸術概論概要』より
かつて誰もが神のために歌い踊り祈っていた生活は変わってしまいました。芸術を楽しむのは、舞台のチケットを買ったり、絵画展に出かけたりできる一部のお金持ち達だけ。百姓は芸術と無縁の生活を送り、来る日も来る日も畑に出かけて、ただ生存するためのみに、働く毎日…。
でも、そんな灰色の労働生活は変えようと、賢治は主張するのです。だからこそ、賢治はヒヤシンスやチューリップを育てたり、レコード鑑賞会や童話の朗読劇を開いたりしていたのでしょう。
人生の中に小さな喜びを見つけ出していこうということが、芸術をもて灰色の労働を燃やせということなのかなと、私はそう思うのです。
そしてさらに、百姓は百姓なりの創造を楽しもうと賢治は言います。
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於いて各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家であるー『農民芸術概論概要』より
百姓仕事そのものがもう立派な芸術だと賢治はそう信じていたのではないでしょうか。そのことは、賢治の「第三芸術」という詩を読んでもわかります。
蕪のうねをこさえていたら
白髪あたまの小さな人が
いつかうしろに立ってゐたー『第三芸術』より
白髪あたまの人は、賢治に何を蒔くつもりかと尋ねます。赤蕪を蒔くつもりだと答えると、その人は、賢治の鍬をしずかに取って、こうやるんだと見事な見本を見せてくれます。老人の見事な鍬の使い方に賢治は感動してしまいます。
おれは頭がしいんと鳴って
魔薬をかけてしまはれたやう
ぼんやりとしてつっ立った
日が照り風も吹いてゐて
二人の影は砂に落ち
川も向ふで光っていたが
わたしはまるで恍惚として
どんな水墨の筆触
どういふ彫刻家の鑿のかほりが
これに対して勝るであらうと考へたー『第三芸術』より
白髪あたまの小さな人の鍬の使い方は、水墨画家の筆の使い方や、彫刻家の鑿の使い方に引けをとらないと賢治は震えながら、そう感じているのです。一人一人、全ての人がその道の芸術家なのだと、賢治はこの時、確信したのかもしれません。
おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ
われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元芸術に創りあげようではないか…ー『農民芸術概論概要』より
自分達の耕す畑、自分達の生活そのものを芸術作品にしてしまおうではないかと、賢治は高らかに歌い上げます。
当時の花巻の農村は貧しく、厳しく、暗いものでした。そんな貧しさと暗さを吹き飛ばして、明るく生き生きしたものにしていこうよ…というのが、賢治が、農民芸術の講義に託した願いであり、「羅須地人協会」に込めた思いだったのではないでしょうか。
世界ぜんたいの幸福を考える
そして、賢治の意識は、花巻から世界全体にまでも広がっていました。「農民芸術概論概要」の序論にはこう書かれています。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道であるー『農民芸術概論概要』より
賢治は熱心な法華経の信者で、この序論には、その思想が色濃く反映されている感じがします。仏教とヨガは、同じ古代インドから発祥した宗教ですから、かなり近いものがあります。そのためでしょうか。私はこれを読んだ時「ヨガ・スートラ」の教えと同じだ!と思ったのです。
銀河系を自らの中に意識して、世界のまことの幸福を索ねよう…という言葉は、瞑想をして、究極の悟りであるサマディーを目指そう…というヨガの教えと共鳴します。世界のまことの幸福とは、まさしく、サマディーそのもの。そのサマディーをみんなで探そうと賢治は呼びかけるのです。
賢治が、世界ぜんたいの幸福を本気すぎるくらい本気で目指そうとしていたことは、百姓になってから、無償で近隣のお百姓たちのために肥料設計図を書いていたということからもわかります。賢治が農民たちのために無償で書いた肥料設計図は、何と生涯で二千枚を超えるんだそうです。
わずかな粗食ですませ、慣れない百姓仕事に汗と涙を流していた賢治は、ひどい雨続きの中、自分が肥料設計図を書いた稲の具合を見ようと雨に打たれながら駆け回って、ついに病に倒れました。
「アメニモマケズ カゼニモマケズ…」という有名すぎるフレーズは、この病床の中で黒い手帳の中に鉛筆書きで書かれました。志半ばで雨に倒れた自分の弱い身体が、どんなに悔しかったことでしょう。「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」というフレーズからも、その悔しさがにじみ出ているような気がします。
賢治は闘病生活に入ってもなお、病をおして、死の直前までお百姓さん達の肥料相談に乗っていました。それは、世界ぜんたいの幸せを真剣すぎるくらい真剣に願っていたからこそなのだと思います。
世界ぜんたいの幸福なんてもちろん現実的ではありません。ですが、世界ぜんたいの幸福を考え続けることは、もしかしたら、ものすごく大切なことなのではないかと思うのです。コロナ禍の今、まさしく、世界ぜんたいの幸福が、個人の幸福に影響している真っ最中ともいえます。
コロナが終息するまでは、一人一人の自由の暮らしは望めない。そんな今、私達は、世界ぜんたいの幸福のためにどうすべきなのでしょうか。
賢治がもしも、今の時代に生きていた人だったら、震災後十年の花巻の町で、いったいどんな行動を起こしたのでしょう。今なら、もっともっとたくさんの人が賢治の活動についていったかもしれませんし、世界を変える大きなうねりになったかもしれない…。
今回、このコラムのために改めて賢治の人生を思い返して、本当に私はそう思いました。天国の賢治に、あなたならどうするのかと、本当に聞いてみたいです。
参考資料
- 『宮沢賢治万華鏡(平成13年)』著 宮沢賢治 編 天沢退二郎(新潮文庫)
- 『NHKカルチャーアワー文学探訪 宮沢賢治』 栗原敦(NHK出版)
- 『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』見田宗介 (岩波現代文庫)