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ヨガに深い関わりのある梵我一如という考え方は、「聞いたことある!」という方も多いのですが、なんとなく仏教用語っぽいねと言われることも多いです。
難しそうに聞こえますが、実はヨガを学んでいる人にとっても土台となるとても大切な教えです。
今回は分かりやすい梵我一如の意味と、それを体験できるヨガの実践について説きます。
梵我一如とは?ヨガ哲学の土台となる教えを理解しよう
梵我一如は、インドの6派正統哲学の1つ『ヴェーダーンタ学派』の最もコアとなる思想です。
ヴェーダーンタ学派と言うと難しそうに聞こえますが、ヨガを実践している人にとってはなじみの深い教典『バガヴァッド・ギーター』の教えを築いた哲学学派です。
つまり梵我一如は、クリシュナ神の説いたヨガを実践するために、土台として理解をしておいた方が良い考え方です。
梵我一如の意味
梵我一如の「梵」はブラフマンを意味します。ブラフマンとは、宇宙の根本原理。つまり、この宇宙にあるあらゆるものはブラフマンから生まれたとインドでは考えられています。
次の「我」はアートマン。アートマンとは、自分自身、個の根源です。私たちの身体や心の働きではなく、もっと根本となる意識体があると考えられています。それがヨガで探す真の自己です。
そして、「一如」とは同一であるという意味。
つまり、梵我一如を言いかえると「宇宙の本質と自己の本質は同一である」と言うことができます。
あなた自身の素晴らしさに気が付く大切さ
ヴェーダーンタ学派の考え方の軸となる有名な言葉があります。
“Tat Tvam Asi” (汝はそれである)
「それ」とはブラフマンを意味する言葉です。宇宙の全てを含むは言葉にすると意味が制限されてしまうので、特定の名前ではなく「それ」と呼ばれることが多々あります。
また、ヨガで有名なマントラでも同じようなものがあります。
”Shivoham” (私はシヴァ神である)
一般的なイメージだと、神は超越した存在であって、人間とはかけ離れたものだと思われます。しかし、インド哲学の素晴らしいことは、私たち自身が神聖な存在(ブラフマン)そのものであると考えることです。
私たちが神よりもずっと劣った存在であると考えるのは、自分自身の本質に気が付くことができていないからであり、自分自身を正しく知ることによって、あなた自身の素晴らしさに気が付くことができます。
ヨガでは、自分の意識を変えるだけで解脱に達することができます。
今の私たちの意識は、自分の外の世界に向いてしまっています。例えば、自分のいる環境、社会的立場、周囲から見た自分の評価、自分の着ているもの、自分の外観。
自分自身について考えているつもりでも、実は外の世界に意識が向いて、外の世界との比較で自分を判断しようとします。
そうやって作られた自分自身への評価は、自分の居場所が変わるだけで崩れてしまう不安定なものです。だから、いつも自分自身のことが分からなくて不安になってしまいます。
インドの言葉で自身の本質のことをアートマンと呼びます。
アートマンは目に見える身体や心の働きではなく、自分自身の本当にコアの部分の意識体です。物質ではないので、日本人にとっては魂に近いイメージかもしれません。
アートマンは外の世界の影響を受けません。常に安定して、平穏で、純粋であり、幸福と結びついています。
ヨガで外に向いてしまった意識を内側に戻すことでアートマンを感じることができます。それだけで、周りに影響されない本当の幸せを知ることができます。
自分も他人も全ては一つと考える(一元論)
ヨガによって自分自身の本質であるアートマン(自己の根源)を知ることができると、自然に自身と世界の真実を知ることができます。
それは、アートマンはブラフマンと同一ということです。
これら全ては、誠に、ブラフマンである。個(アートマン)はブラフマンである。(マンドゥキャ・ウパニシャッド第2節)
今まで「自分と他者は別物」と認識していても、意識が物質世界から解放されると、自分と外の世界に全く垣根がないことを知ることができます。
ヨガのクラスのシャバーサナ(屍のポーズ)を行っている時、周りの世界との一体感を感じる人は多くいると思います。そのように、ヨガを行って意識を純粋にしていくことによって、自分と世界は同一なのだと自動的に感じることができます。
自分と周りの人たちの間に違いはなく、牛や犬も同様、また、緑の木々や海の水など自然界全てのものに対して一体感を感じることができます。
本来、世界はたった1つのブラフマン(宇宙)であるのに、私たちの意識が物質的な個性に囚われてしまっているために「自分と他人は別物」と認識し、比較や争いを生み出しています。
このように、全てはたった一つのブラフマンだと考える思想を一元論と呼びます。
土で例える梵我一如の考え方
インドの聖者たちは一元論、もしくは梵我一如を土に例えます。
この世界全体を土だとすると、土から粘土が作られ、粘土からお皿やコップ、花瓶や水瓶などあらゆるものが作られます。
しかし、お皿やコップといったものは、その瞬間の一時的な形でしかなく、本質は土です。食器はいつか割れてしまい、年月をかけてまた土に戻っていきます。
このように、ものの本質を見れば全ては土です。有名な作家が作ったり、豪華な装飾をしたりすれば同じ土でも高価なものになるかもしれませんが、それは一時的な価値でしかないことを理解しましょう。
土で例えるので、なんだか味気なく感じてしまうかもしれませんが、私たちの本質であるブラフマン(宇宙意識)は、制限のない純粋で幸福に満ち溢れたものです。
物質世界の、目に見えやすく、無常なものに固執してしまうと、常に心は惑わされて苦悩を生みますが、自分の内側に変わらないものがあることはとても大切です。
梵我一如の考えで自分も他者も大切にする
自分の内側のアートマンと、世界全体のブラフマンを感じられるようになると、誰に対しても平等な人になることができます。
賢者は、学術と修養をそなえたバラモンに対しても、牛、象、犬、犬喰いに対しても、平等(同一)のものと見る。(バガヴァッド・ギーター5章18節)
自分と意見の合わない相手がいても、それは考え方の違いにしかすぎません。その人の存在自体が否定されるべきではありません。
自分が得をすることも、他者が幸運を得ることも平等に喜べるようになれば、小さな損得での争いもなくなりますね。
例えば会社などでは同じチーム内で責任の押し付け合いをしていては、無駄に労力と時間を浪費してしまいます。全員が同じように成功を目指せた方がスムーズに進みますよね。
誰かだけが得をするのではなく、みんなが1番幸せを感じる状態を望むのがヨガ的な平等です。
自己犠牲もしない平等さ
まじめな人は、「人格者になろう」と頑張りすぎるあまり、逆に自己犠牲をしてしまう場合があります。
例えば忙しい職場で、「私が休んだら周りに迷惑をかけてしまう」と思いすぎて、本当に体が動かなくなくなってしまうまで働いたら本末転倒です。
結果、その人が倒れた後、会社全体の大きな損失になってしまいますね。だから、「無理をしても自分が頑張る」以外の根本的な解決を探さないといけません。
全体にとっての最適を考えることは、自分1人について考えることよりもずっと難しいのですが、だからこそ私たちは日々ヨガから考え方を学んでいます。
会社の例を出しましたが、人間以外の大きな地球についても平等に考えてみましょう。
いつまでも自然から奪い続けることは、他の生物にとっても、人間にとってもよくないことです。だから、私たち1人1人が「何ができるのか」を考えることが大切です。
梵我一如、それは全てが平等だというヨガの教えにも繋がります。
私たち自分自身も、周りの世界も、全てが貴くて美しい存在です。ヨガの教えが自分の考え方の土台に定着すると、あらゆるものへの愛が深まってきます。