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私のクラスでは、どんなティーチャーになりたいのか、何を教えたいのかといったディスカッションは行いません。
その代わり一つひとつの行為が何によって生じているのか、その大元を洗い出し、知るプロセスに重きを置いています。多くの人が行為ばかりに目を向けてしまうことで、自分の本質を理解できず、魂の声を自らがシャットアウトしている状態に傾いています。
もしヨガをはじめた動機が自分を知ること、あるいはよりよい自分になることなら、自分の考えや行為が出てくる源泉を見つめ、その泉が澄んでいるのかを自身に問い続けることが大切です。
結果や結論を急がずに……。
執着を手放し、自分とつながることですべてとつながる
ギーターの中に、印象深い一節があります。
ヨーギーはすべての執着を捨て
体、心、知性、そして感覚まで使って活動する。
ただ浄化されるためだけに。
まさに、この教えこそ本質だと感じています。教える立場にいる私は特に、自分自身がクリアでいなければいけないと受け止めています。
自分をクリアに整えるうえで欠かせないのは、行為の源泉を見つめること。
ギーターの中には、自らの行為の源泉に一切の曇りがない覚者について形容するこんな一節もあります。
神聖な意識の人は見る、聞く、触れる、嗅ぐ、食べる
動く、眠る、呼吸する、という行為をしていても
実際は自分では何もしていないということを
自己の内で知っている。
話していようと、排せつしていようと
何かをつかんでいようと、目を開け閉じていようと
ただ感覚がその対象に反応しているだけだと知り
常に超然としている。
究極の意識状態ともいえますが、こうした真理に触れることで、自分の行為を振り返り、ニュートラルな視点に立ち返りやすくなります。自分に執着がないかを絶えず問い、ニュートラルな視点に毎瞬立ち返ることは、自分自身を、そして周囲との関係を健全に維持するうえでとても有効な手段です。
私たちは人のことを好きになったり、人に触れたり、好きな食べ物を食べたり、味わうことができます。これは肉体があるからこそできる尊い体験です。この一見、当たり前だと感じていることに感動と感謝を見出せるのも、ニュートラルな視点に立ててこそ叶うもの。行為ばかりに意識が傾けば、必ず執着が生まれ、当たり前のことに感謝ができず傲慢になりバランスが崩れてしまいます。
だからこそどんな出来事にも、他者に対しても、自分にさえ執着しないことが大切なのだとギーターは一貫して伝えているのでしょう。
自立から始まる、健全なつながり
たとえば、ティーチャーと生徒という関係性ではお互いに自立していることが、とても大切になってきます。
ただ、ヴェーダの学びではひとりの師から学ぶという教えがあるので、これを誤って解釈しているティーチャーのなかには、自立という視点が欠落している人がいるのも事実です。生徒をコントロールしたり、自分の思想を押し付けたり、自分以外の場所での学びを否定したり、あるいは敢えて依存させるよう支配的な手法をとったり……。それはティーチャー自身が自分のエゴと向き合うことを拒絶し、ヴェーダを都合よく解釈しているともいえます。
ひとりの師から学ぶというのは、どれだけ本人が自分の真実に目醒めることにコミットしているのかを示すバロメーターであり、結果にすぎません。なるべくして自然と、そうなるのであってティーチャー側が生徒に、その関係を強要したり押しつけることではないのです。
いっぽう、生徒のなかにもティーチャーに全ての答えを求めようとしたり、助けてもらおうとしたり、他力的な甘えや依存でつながろうとする人もいるでしょう。
いずれも、自己の本質と向き合おうとする純粋な意識ではなく、エゴによる執着からのつながりです。エゴに力を与えている限り、自分と生徒、あるいはティーチャー、また自分自身とさえ健全につながっていくことはできません。
ティーチャーの役割は、答えをすべて教えるのではなく、生徒本人が自らの力で答えを見出せる自立心を育むべく、光を照らすことだと、私は感じています。
生徒自身も必要な答えは、頭で理解するのではなく、実践の先にある変化を自らが体感してこそ得られるという真実を理解したうえで、学びを深めていくことが大切です。
師から弟子へ、そして弟子から弟子へと真理は受け継がれていく
長年多くの人を見てきて確信していることは、能力を開花させ、調和の取れた自分本来の道を進み始めた人たちにはグルと呼ばれる存在、あるいはコミットしているティーチャーがいるということです。でもそれはティーチャーに依存しているというわけではありません。
自立しているからこそ、健全につながることができ、健全につながっているからこそ、安心して関係性を継続できる。それは、先に記したとおり、絶えず自分にコミットしていることの象徴でもあります。
ちなみにティーチャーと呼ばれる人にもティーチャーがいて、そのティーチャーにもまたティーチャーがいます。
本当の自分を生きたい、本当の自分に目醒めたいという確固たる思いがある人は、その思いから最善の師、あるいは生徒を引き寄せ、健全な師弟関係を構築しながら、その輪を広げていくのでしょう。
そうして師から弟子に、弟子からその弟子へ……と、一人ひとりの自立した生き方をとおして、脈々と真理が継承され拡がっていくのではないか、と。
本当の自分に目醒めるには、段階的な浄化や、気づきの積み重ねが不可欠です。一足飛ばしに到達できるものではないと、私は考えています。だからこそ、一歩先ゆくティーチャーの存在は、途中で道がブレないためにも必要です。とはいえ、それは手取り足取り面倒を見てくれる存在というわけではありません。
繰り返しになりますが、本当の自分に目醒めたい、と強く思っている人は自然とその道がひらかれ、最善の師弟関係を築いていくのだと感じています。
教える側からまず一切の期待を手放し、本質に目醒めよう
自己を悟った魂から真理を得たものは、
再び幻想に陥ることはない。
その知識によってすべての生命体は至高の存在
すなわち私の一部であると知るからである
ティーチャーと呼ばれる立場の人は、絶えず自分自身の源泉を見つめることが何よりも大切です。
成果を求めていないか、評価を求めていないか、地位や名声を得ること、集客を得ることばかりに思考を使っていないか……。常にニュートラルな視点に立ち返って、向き合うことが大切です。
そして、浄化して、浄化して、浄化して、執着を一つひとつ緩め、手放し、純粋意識を高めていくことが不可欠だと感じています。このプロセスを経て初めてエゴからではない本当の意味での愛に溢れた行動が生まれ、豊かに人とつながれるようになり、すべてが循環していくことを実感しているからです。
これは意図的、作為的に構築できることではありません。だからこそ、私のクラスでは行為よりも行為の源泉に目を向け、浄化するプロセスに重きを置いているのです。
浄化された純粋な意識で伝えることは、相手を本質へと目醒めさせるパワーに満ちています。
すべては自分につながることから、はじまるのです。