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ヨガ哲学では、人間の苦しみは全て思い違い「無明(アヴィディアー)」によって作られていると説かれます。
アヴィディアーとは、真実が見えていない状態です。
世界を正しく知るための光、つまり正しい智慧がないから、人は暗闇で恐怖や不安を抱いて苦しみを生み出していると考えます。
今回は、苦悩の原因であるアヴィディアーについてご説明します。
全ての煩悩の元である無明(アヴィディアー)
無明(アヴィディアー)は、ヨガ・スートラの中で煩悩(クレーシャ)の1つとして説かれています。
ヨガ・スートラで説かれている煩悩には5つのものがあります。
- 無明:全てのクレーシャの原因。間違った妄念※1。
- 自我意識(アスミター):プルシャとプラクリティを同一だと勘違いすること。
- 愛着(ラーガ):渇望を呼ぶ快楽・愛着。
- 嫌悪(ドゥベーシャ):苦痛の記憶に対する反発の感情。
- 死への恐怖(クレーシャーハ):死を怖がる。または生に対する執着。
アヴィディアーはクレーシャの1つめとして書かれていますが、同時に他の4つのクレーシャの原因として説かれています。
眠り、弱まり、散乱し、拡大する他のクレーシャの土台となるのが無明(アヴィディアー)である。(ヨガ・スートラ2章4節)
その他4つの煩悩は眠り込んだり、弱まったり、一時的に中断しますが、全ての根源であるアヴィディアーが残っている限り必ず現れます。
つまり、アヴィディアーを断つことが、全ての苦悩の原因を断絶することに繋がります。
アヴィディアーは、愛着や魅力的な事柄によって盲目になったことで、正しくない見解を生み出してしまうことです。
心が魅力的なものに対して「私のもの」というエゴが生まれると、そこからさまざまな欲や執着を生み出し、自ら生み出した妄見にしがみつこうとします。これらを断つことがヨガの実践です。
無明(アヴィディアー)は4つの思い込み
ヨガ・スートラによると、アヴィディアーには4つの妄念が含まれています。
アヴィディアーとは無常、不浄、苦、非我であるものを常、清浄、楽、我であると誤認することである。(ヨガ・スートラ2章5節)
ここに書かれた1つずつをみていきましょう。
無常なものを常だと思う
仏教でも「諸行無常」という言葉があるように、この世界にあるあらゆる物質は常に変化し続けて永遠とカタチが変わらないものは何1つありません。
しかし、人は変わらない何かを求めます。
1度手に入れた富は、決して失わないように必死に守ろうとし、老いる身体を受け入れられなくて必死にアンチエイジングに取り組みます。
人の心だって変わり続けています。「君が好きだ」と言ってくれた恋人の気持ちが離れて行ったり、仲良かった友達との関係がうまくいかなくなったりすることを受け入れられません。
これらの変化し続ける世界を受け入れないことが大きな苦しみを生み出します。今あるものへの執着は、失う恐怖と、失った悲しみを必ず生み出します。
不浄なものを清浄だと思う
世界は3つのグナ(性質)の組み合わせで作られています。
3つのグナとはサットヴァ性(純粋さ)、ラジャス性(激しさ)、タマス(鈍さ)です。どれだけ薄くしいものであっても、必ず3つの性質が含まれていて、100%の清浄さはありません。
例えば、キャンドルの光は美しいものです。しかし、キャンドルが輝くためには、土台のロウの部分が必要で、この物質はタマス性です。そして、炎が燃えることはラジャス性。その結果、光というサットヴァ性が生まれます。
人の心も3つの性質によって作られています。眠っているときにはタマス性が強くなり、怒っているときにはラジャス性、心穏やかな時にはサットヴァ性の幸福を感じます。
サットヴァ性が高まっていても、それ以外の性質が消滅したわけではありません。必ず3つは存在していて、その時に優勢になっている性質によって状態が変化しています。
唯一、完全に正常なものはプルシャ(真我)、またはアートマン(自己の根源)と呼ばれる内側に宿る自分自身です。それは物質世界に汚されることなく、自身の内側で光り続けています。
私たちは、本当の自分でない物質(不純なもの)を自分自身(清浄なもの)だと勘違いすることで苦しみます。本当の自分の姿に気が付くことができれば、もう苦しみを生み出すことはありません。
そのため、ヨガではプルシャの状態に最も近いサットヴァ性(純粋さ)をあげることで、本当の自分を知ろうとします。
苦を楽だと思い込む
本当は「苦」の性質を持ったものを「楽」だと思い込むことも大きな苦悩を生み出すアヴィディアーです。
クレーシャ(煩悩)の1つにラーガ(快楽)というものがあります。快楽は良いものに見えますが、苦悩の原因となってしまうことがあります。
ラーガは物質世界の対象に対して生まれるものです。5感を通して得た情報に対して喜ぶ心です。例えば、美味しいものを食べたという味覚からの喜び、美しいお皿と盛り付けという視覚、暑い日に冷たいビールののど越しは触覚、というように、日々外の対象に対して人は幸せを感じます。
しかしこれらのラーガは、人の心を束縛します。分かりやすいのはアルコール。仕事のストレスの後で飲むビールが美味しいからと、毎日ビールを飲むようになったら依存症になります。
アルコール依存症は極端ですが、生活レベルを上げてしまって、環境が変わった時に節約ができないといった経験は誰にでもあると思います。
1度手に入れたものは、「これがあって当たり前」、「これが無いと幸せでない」という思い違いを生みます。
つまり、何らかの対象を条件とした「快楽」は喜びではなくて「苦」だとヨガ哲学は説きます。
ヨガ哲学で真実の幸福はアーナンダ(至高)と呼ばれます。
アーナンダは永遠と途絶えることなく、変化することなく、穏やかで限度のない平和な幸福です。それは、「何もなくても幸せ~」な状態です。ヨガで内側と向き合うことで、何も足さなくても既に存在する平穏な幸福を感じられるようになります。
非我を我だと思い込む
非我(アナートマン)を自分自身(アートマン)だと勘違いすることも苦しみを生む原因となる無明です。
私たちは目で見て感じられる自分を本当の自分だと考えがちです。しかし、形ある身体は常に変化し続けています。
「スレンダーな私」「肌のきれいな私」「五体満足な私」と、今の自分の状態に思い入れを抱きすぎてしまうと、物質としての体が変化した時に受け入れることができなくて悲しみを生んでしまいます。
そのためヨガ哲学では、「本当の自分とは何か?」を考えます。
存在しない闇を怖がらないこと
ヨガとは、存在していない苦しみや恐怖を取り除いていくことです。
私たちは、知らないものに対して恐怖心を抱きます。暗闇で前がよく見えないから、危険があるのでは?と想像して苦しみます。
ヨガとは、プラディーピカ(灯り)のようなものだと考えられます。
暗闇は、「闇」というものが存在するわけではなく、光が欠如していて真実が見えなくなってしまっている状態です。
どうして光がないのか、それは私たちが心の中に様々な妄念を抱いて、それが泥沼のようになり、光を遮ってしまっているからです。
つまり、光を得るということは、心の掃除をして、もともと存在している光が通るようにする作業です。
光を手にして闇が消えれば、私たちはなにも恐れる必要がなくなります。