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インド独立の父として知られるマハトマ・ガンディーは、非暴力(アヒムサー)こそが全人類の目標だと説き、自分自身も生涯アヒンサーの実践を行っていました。
非暴力(アヒムサー)はヨガを行っている私たちにとってもなじみの深いものです。『ヨガ・スートラ』という教典では八支則の1番目のヤマの1つ目にアヒムサーを説いています。
つまり、ヨガを志す人が1番最初に実践すべき教えだと捉えることもできますね。
インドの偉人がどのようにアヒムサーに向き合っていたのかを考えてみましょう。
アヒムサーは人類すべての目的であり、努力することが大切
ガンディーは「自分たちは「半人半獣」だ」と言いました。それは、無知傲慢によって完全な非暴力を貫くことができないからです。
怒りや復習心は簡単に人の心の中に生まれます。それに対してアヒムサーはとても難しく、到達しがたいものです。
人がアヒムサーを貫くためには自己を抑制することが必要ですが、その抑制こそが人類と獣類の違いだとガンディーは考えました。
植民地時代のインドには、イギリスに対する大きな怒りの感情がありました。不条理な悪法によって資産を取り上げられ、暴力に耐えなくてはいけませんでした。
そんな中でもガンディーは、傲慢なイギリス人を非難するべきではないと説きます。
インドがイギリスの悪行を反対するのは苦しめられたことに対する復讐ではないことも明示します。相手からの暴力に対して怒りで反発するのではなく、愛の火の中で悪行を溶解することを目指しました。
そうして実行されたのが有名な塩の行進を筆頭とした政治活動です。
塩の行進は、イギリスが塩の専売を行うことを定めた制度に対する反抗です。塩の販売だけでなく、自ら塩を作った人さえ、罰せられる制度でした。特に貧しい人は、塩に高い税金を課せられると生活に困窮してしまいます。
制度に反対して行われた塩の行進は、“約380kmを行進し海岸へ行き、ガンディーや活動の参加者らが自ら塩を作る”というものです。
暴力行為を一切行わない行進に対しても、イギリス政府は6,000人以上を投獄し、死傷者もでました。
しかし、アヒムサーを守ったガンディーの活動は確実に人々の心を捕えて歴史を動かしました。
アヒムサーでも努力の過程に満足する
ガンディーは目標を追い求めるのではなく、アヒムサーのような大きな課題に対しても過程を大切にするべきだと説きました。
目標は、追えば追うほど現実から逃げていきます。それに対して、過程に意識を向けることは私たちに満足感を与えてくれます。
「満足は目的の達成にあるのではなく、努力の中に在るのだ。」
ガンディー自身、「行動を起こすたびに自分は失敗するのだ」と言いました。
成功と失敗とはとは何なのでしょうか?
例えば 塩の行進について考えても、それがインド独立のキッカケを作ったと考えれば成功だと言うこともできるでしょう。
しかし、もともとの目的が貧しい仲間を救うことであったのであれば、一緒に行進に参加した多くの仲間が苦しんだり命を落としたりした時点で大きすぎる失敗だと言えます。
それでもガンディーが動き続けていたのは、努力こそが大切だと知っていたからです。
もっと身近なところで考えてみましょう。ヨガのゴールがサマディ(三昧)に到達することであれば、サマディに到達できない多くのヨガ実践者は失敗なのでしょうか?
違いますね。ヨガを練習している多くの人は、ヨガの練習自体が気持ちよかったり楽しかったりするので続けています。過程を楽しむことによって、より多くの努力を続けることが可能になります。
アヒムサーの実践であっても、意識が深くなるほど今まで気が付かなかった自分の中の暴力性に気が付いてしまいます。
しかし、それはアヒムサーの失敗ではありません。気づきこそが、アヒンサーを深めてくれます。
誰に対しても平等なアヒムサーこそが神の境地
アヒムサーは誰に対しても平等であるべきだとガンディーは説きます。
たとえ人間にとっての害虫に対しても平等にアヒムサーを行える状態になることで、あらゆる生命を生み出した神の意識を初めて理解できるのだと言いました。
当時、インドの一部の地域ではイギリス人や、イギリスに協力しているインド人は安全に外を歩くことができませんでした。反イギリス政府の人によって暴力が行われる可能性があるからです。
それを知ったガンディーは悲しみを感じました。暴力による反抗は、次なる復讐の原因となります。そして、多くの流血をともなった革命を起こします。
だからガンディーはイギリス政府に対して友好的であり続けろと説きました。
あらゆる存在の中に神を感じる
自分の家族であっても、仲間であっても、敵であっても、全ての存在に対して平等な愛を抱ける心こそがヨガの境地です。
ガンディーが毎日熱心に読んでいた『バガヴァッド・ギーター』の中に次のような言葉があります。
最高の主は万物の中に等しく存在し、万物が滅びても滅びることはないと見る人、彼は(真に)見るものである。
(『バガヴァット・ギーター』13章27節)
「私の家族」「私の子供」「私の車」「私と同じ国の国民」と、「自分の」という対象に対して特別な感情を抱くのはエゴ(自我意識)です。
エゴは自分のものに対して大きな執着を生むのと同時に、他者に対する反発や「負けたくない」という気持ちを生みだします。
バガヴァッド・ギーターでは、宇宙に存在するすべての物の中に等しく神が存在すると説きました。
それは日本の神道にも似ているかもしれません。一粒のお米の中に神様が宿ることを知って、感謝して食事を頂く文化が日本にはあります。
そう考えると、日本人は共感能力が非常に高く、すでにヨガ的なものの見方に近いのかもしれません。自分以外の人の立場に立って考えることができれば、すでに土台はできています。
あとは誰に対してもアヒムサーという愛を注ぐ実践を行いましょう。
自分に対するアヒムサーから始める
バガヴァッド・ギーターやヨガ・スートラを熱心に勉強していたガンディーにとっては、社会全体に対するアヒムサーを実践することは自然なことでした。
しかし、普通の人はある日突然「世界全体に愛を注ぐ」なんて考えられないですし、何を行ったらいいのかも検討がつかないと思います。
中には、心から人に優しくしたいと思えない自分に対して悩む人も多いかもしれません。
例えば、子供に対してキツイ言葉を使ったり意地悪したりしたくないのに、なぜかそれをしてしまう自分に苦しむ人もいるでしょう。
私たちは、自分自身に余裕がないと他者に対しても優しくすることができません。海などで自分が溺れているときには、人を助けることができないように、自分自身が迷っている人は他者の悩みを取り除くことができません。
だからヨガでは、まず自分自身に向き合うことを勧めます。
自分に向き合うヨガは利己的ではない
ヨガの練習は、とことん自分と向き合うことそのものです。
このため、人によっては、ヨガでは自分のことばかり考えていて、自己中心的だと思う人もいるようです。
しかし、自分自身が幸せになることは自分だけのための目的ではありません。自分自身が安定することによって、はじめて溺れている人を助けてあげることができます。
社会全体を愛して救いたいと政治活動を行っていたガンディー自身も、プライベートではヨガの実践によって自分に向き合っていました。
自分自身が食べるもの、妻との性生活、毎日の祈りの時間など、あらゆる場面でヨガの教えを取り入れながら自身のエネルギーを高め、その活力と思考を政治的な活動で発揮していました。
私たちは誰でも、自分自身に向き合う時間と、社会生活との両方の時間が必要です。
自分自身に対するアヒムサーを考えられない人は、他者に対するアヒムサーを実践することもできません。反対に、自分に優しくなれれば、自然と他者にも優しくできます。
アヒムサーを実践する心の余裕がないと感じる人は、まずは自分自身に対するアヒムサーから見直してみましょう。
上手くできないと感じても大丈夫です。努力の過程こそが何よりも大切だとガンディーが説いてくれています。
参考資料
- 1922年「ヤング・インディア」紙所載ガンディーの手記